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【JFA100周年企画】

「何もない時代から
ここまできたが
完成ではない」
セルジオ越後さん(解説者)
インタビュー

2021/07/02
本人提供

VOICES

サッカーファミリーの声

日本サッカー協会(JFA)は2021年9月に創立100周年を迎えます。ここではサッカーの魅力について考えるきっかけにするために、さまざまなサッカーファミリーにインタビューを実施します。第9回目は日系二世としてブラジルでプロデビューを果たし、現在は解説者、指導者として日本サッカーを支えるセルジオ越後さんに登場いただきました。 ○オンライン取材日:2021年6月9日

サッカーと出合ったきっかけを教えてください。

セルジオ

僕はサンパウロの中心街から少し離れたところにある住宅街で生まれ育ちました。日系人が多い地域ですが、現地の学校に通い、現地のコミュニティで育つ中で、ブラジル人の子どもたちと自然にサッカーをしていました。今みたいに遊具が豊富ではない時代でしたし、広場にちょっと人が集まって、ボール1個あればできる遊びといえばサッカー。ある意味自然な流れだったと思います。例えば僕がカナダに生まれていればアイスホッケーをやっていただろうし、日本で生まれたら野球をやっていたでしょう。

遊びの中でサッカーを始め、コリンチャンスでプロ契約するまでの経緯を教えてください。

セルジオ

当時はサッカースクールなどなく、子どもから大人まで入り交じって毎日のように草サッカーをしていました。教えられるのではなく、年長者が見せてくれる技術を、一緒にボールを蹴る中で覚えていく。それでうまくなると、あちこちのチームから「うちでプレーしてくれ」と声がかかるようになり、サンパウロ周辺で有名になっていくんです。そうしていくうちに、試合を見に来る人が応援するクラブに推薦してくれるんですよ。僕の場合はコリンチャンスとつながりのあった人が「紹介状を書くから行ってみないか」と言ってくれて、テストを受けたのがきっかけです。

1972年に藤和不動産サッカー部(現湘南ベルマーレ)からオファーを受けて来日しました。当時は日本や日本サッカーに対してどのような印象を持っていたのでしょうか。

セルジオ

イメージは何もありませんでした。ブラジルでは日本について何も報道されていなかったですから。そもそも当時のブラジルの文化の中に“世界”はありませんでした。ドメスティックな社会の中でみんな育っていました。

本人提供

では、来日後に衝撃を受けたことも多かったのではないですか?

セルジオ

ブラジルではプロ選手でしたが、日本ではアマチュア選手としてオファーを受けたので、登録を切り換えるのが大変でした。これは後から知った話ですが、デビューする前日の夜までJFAの幹部が緊急会議をして、元プロがアマチュアの試合に出場していいのかどうか議論をしたそうです。当時の日本は“プロ”という言葉にものすごく敏感でしたね。最終的に許可は下りましたが、それ以降、外国籍選手を獲得しても調査のために半年間、試合に出られないという規則ができてしまった。今では考えられませんが、それくらい当時の日本サッカーは閉鎖的でした。

そういった時代を経て、JFAは今年9月に100周年を迎えます。

セルジオ

昔は渋谷の岸記念体育会館の一室がJFAのオフィスで、それで間に合ってしまうぐらい規模が小さかったんです。都道府県のサッカー協会なんて、学校の先生の机が事務所代わりだったというところもあります。そういう時代から渋谷にビルを借り、自前のビルを持ち、トレーニング施設を整備して、ハードの面は大きく成長しました。ただ、今はJリーグが開幕した頃に比べて注目度が下がっている印象もあります。海外でプレーしている選手はメディアにも露出しますが、国内の選手は少ない。地上波のサッカー番組も減っています。101年目以降に向けて、みんなで考えるべき大きな宿題だと思います。

試合の中継などでは“辛口解説”と評されることもあります。解説者としてのご自身の役割はどのように考えていますか。

セルジオ

今、僕は視聴率のことを特に考えています。Jリーグが開幕した時、地上波で試合を放映して高視聴率を稼いでいました。それがだんだん下がってきて、放送が有料チャンネル中心になっていることに危機感を覚えています。民放がJリーグを中継せず、日本代表の試合だけを取り上げる現状は、日本サッカーの今後を考えると不安です。“辛口”なんていうニックネームがあるので批判しているように聞こえるかもしれないですが、川淵三郎さんには「僕はサッカーを仕事にしているので批判しているつもりもないし、サッカーを潰すつもりもない。日本サッカー界がもっと良くなってほしいと思っている」と伝えて、納得してもらいました。

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1978年から「さわやかサッカー教室」を開くなど子どもたちへの指導にも長らく携わってきました。未来を担う子どもたちへのメッセージをお願いします。

セルジオ

地方に行くと、少子化で小学校が廃校になり、年々チームが減っているそうです。そうすると子どもたちのプレー機会が奪われてしまいます。サッカーをする子どもが全員プロになれるわけではないですが、サッカー界は選手にならない人で成り立つと考えています。子どもたちに試合に出られる喜び、プレーする喜びを与えるのが僕たちの役目だと考えています。

これからの100年間でサッカーやJFAに期待することを教えてください。

セルジオ

厳しいことを言いましたが、僕が最初に来日した時は何もなかったんです。あの時代には戻りたくありません。アマチュア時代からプロ化したことによって選手はレベルアップしましたが、これで完成だと思ってはいけません。アジアの中で日本は別格だということを示さなければいけないですし、そのために成長しなければならないと思っています。

©Walnix
プロフィール
セルジオ 越後(せるじお えちご)
1945年7月28日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身
サンパウロで生まれ、18歳で名門コリンチャンスとプロ契約を交わす。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)の藤和不動産サッカー部からのオファーを受けて来日。1974年のシーズンをもって現役を引退し、その後は指導者に転身する。現在はサッカー解説者をはじめ、HC栃木日光アイスバックスのシニアディレクター、日本アンプティサッカー協会の最高顧問など多方面で活躍している。