The History of Japan Jerseys
「アディダス サッカー日本代表2024ユニフォーム」は、世界的デザイナー「ヨウジヤマモト」とアディダスのコラボレーションブランド「Y-3」が初めて手掛けたもの。コンセプトは、「FIRE(炎)」。ヨウジヤマモトによる炎のグラフィックは、サッカー日本代表が持つ力強さ、そして日本という国が持つ神秘的な力を象徴している。
一つ一つの炎は選手やサポーターを表現。それらが大きな火柱へと成長していくデザインは、それぞれがチームとして一つなった瞬間、凄まじいエネルギーを発揮するサッカー日本代表の揺るぎない強さを表している。
「アディダス サッカー日本代表 2022 ユニフォーム」のコンセプトは、ORIGAMI。「山折り、谷折り」の折り紙をこれまでのサッカー日本代表の軌跡に重ね、歓喜をもたらす祈りの象徴として表現した。
「ジャパンブルー」を基調とするユニフォームにはORIGAMIのグラフィックデザインが施され、背中の襟元には日の丸、その内側に赤いパネルを装着。これは、SAMURAI BLUE(日本代表)がAFCアジアカップ2011カタールで優勝したときのユニフォームを受け継ぐもので、カタールの地で開催されるFIFAワールドカップ2022で再び歓喜の瞬間を迎えられるようにとの願いを込めたものだ。
2021年5月、「サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム」が完成した。
このユニフォームは、日本サッカー協会の創立100周年を記念して製作されたもので、初めて日本代表を結成したときのユニフォームと、初のオリンピック(1936年/ベルリン)で優勝候補のスウェーデンを破り(「ベルリンの奇跡」)、ベスト8を成し遂げた当時のユニフォームをモデルに復刻したもの。
現代のそれはサスティナブルな素材が使用されており、高い機能性も有する。100周年のコンセプトである「過去への感謝、未来への決意」をも彷彿とさせる、世代を超えて愛されるデザインとなっている。
2021年6月3日、SAMURAI BLUE(日本代表)がこのユニフォームを着用してU-24日本代表と対戦し、3-0で勝利した。その2日後、今度はU-24日本代表が同ユニフォームを着てU-24ガーナ代表との国際親善試合に臨み、6-0で快勝。翌月に控えた東京2020オリンピックに弾みをつけた。
2021年5月、「サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム」が完成した。
このユニフォームは、日本サッカー協会の創立100周年を記念して製作されたもので、初めて日本代表を結成したときのユニフォームと、初のオリンピック(1936年/ベルリン)で優勝候補のスウェーデンを破り(「ベルリンの奇跡」)、ベスト8を成し遂げた当時のユニフォームをモデルに復刻したもの。
現代のそれはサスティナブルな素材が使用されており、高い機能性も有する。100周年のコンセプトである「過去への感謝、未来への決意」をも彷彿とさせる、世代を超えて愛されるデザインとなっている。
2021年6月3日、SAMURAI BLUE(日本代表)がこのユニフォームを着用してU-24日本代表と対戦し、3-0で勝利した。その2日後、今度はU-24日本代表が同ユニフォームを着てU-24ガーナ代表との国際親善試合に臨み、6-0で快勝。翌月に控えた東京2020オリンピックに弾みをつけた。
「日本晴れ」をコンセプトにしたユニフォームは、前身ごろに浮世絵から着想を得た“スカイコラージュ”のグラフィックを用い、背面には鮮やかなブルーを採用。襟元に配された「侍魂」「撫子魂」のサインオフは、逆さにすると「日本晴れ」の文字になる。胸番号・背番号・選手名に赤色を採用した理由は、「青空の頂点に日の丸が登っていく」という願いからだ。
2020年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行によって国際大会も中止や延期に追い込まれた。しかし、各種大会が再開されると、選手らはこのユニフォームをまとい、揺るぎない自信と誇りを胸に世界に挑む。1年遅れて開催された東京2020オリンピック・パラリンピックではU-24日本代表となでしこジャパン(日本女子代表)、そして、5人制サッカー(ブラインドサッカー男子)日本代表もこのユニフォームを着用して初の国際舞台に臨んだ。
2022年には、SAMURAI BLUE(日本代表)がアジア最終予選(Road to Qatar)を突破し、7大会連続となるFIFAワールドカップの出場権を手にした。
「日本晴れ」をコンセプトにしたユニフォームは、前身ごろに浮世絵から着想を得た“スカイコラージュ”のグラフィックを用い、背面には鮮やかなブルーを採用。襟元に配された「侍魂」「撫子魂」のサインオフは、逆さにすると「日本晴れ」の文字になる。胸番号・背番号・選手名に赤色を採用した理由は、「青空の頂点に日の丸が登っていく」という願いからだ。
2020年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行によって国際大会も中止や延期に追い込まれた。しかし、各種大会が再開されると、選手らはこのユニフォームをまとい、揺るぎない自信と誇りを胸に世界に挑む。1年遅れて開催された東京2020オリンピック・パラリンピックではU-24日本代表となでしこジャパン(日本女子代表)、そして、5人制サッカー(ブラインドサッカー男子)日本代表もこのユニフォームを着用して初の国際舞台に臨んだ。
2022年には、SAMURAI BLUE(日本代表)がアジア最終予選(Road to Qatar)を突破し、7大会連続となるFIFAワールドカップの出場権を手にした。
ロシア・ワールドカップでの好成績を期する日本代表の思いを表現したコンセプトは「勝色(かちいろ)」。かつて戦国時代に武将たちが戦(いくさ)に臨む際にまとった鎧下と呼ばれる着物に使われた藍染めの生地において、最も濃い色で勝つための験を担いだ。「勝色」を身に着けたSAMURAI BLUEは2018年に入り急きょ就任した西野朗監督のもと、日本の良さを生かしたサッカーを展開、あと一歩でベスト8というところまで進撃した。
コンセプトは「青の調和」、「11の個性を発揮して勝つ」というもの。濃い青の地に11人の選手の個性を表す11本の異なる色で構成されたボーダーでデザインされ、赤のラインは12番目のプレーヤーとも言うべきサポーターを象徴している。ロシア・ワールドカップ出場を目指したアジア予選などで着用され、埼玉スタジアムでオーストラリアを2-0で下して6大会連続となる出場を決めた試合でも、SAMURAI BLUEの個性が躍動した。
一見きわめてシンプルだが、背中に描かれた赤いラインは選手が円陣を組むと輪になり、チームの一体感を表す。アルベルト・ザッケローニ監督の下、成績もパフォーマンスも良いものを残してきたチームに、ブラジルワールドカップでの期待は大きかったが、1勝も出来ずにグループステージ敗退。再び世界の壁の厚さを思い知らされた。
「結束」をコンセプトに、中央には赤いストライプ、色もこれまでより青が濃くなったユニフォーム。2014年ブラジルワールドカップへの予選を戦ったフル代表と、2012年ロンドンオリンピックに出場したU-23代表が着用。スペインを下す好スタート切り44年ぶり4強入りを果たすも、3位決定戦で韓国に敗れメダル獲得はならず。
2011年FIFA女子ワールドカップで、なでしこジャパンが優勝。FIFA主催の世界大会で日本が初めてチャンピオンとなった。基本的に男子と同じデザインのユニフォームだが、両脇にピンクのラインが入って女性らしさを表現。苦しい戦いも諦めない姿勢を随所に示し、決勝でも終了間際に「10番」澤穂希が同点ゴール、PK戦を勝ち切った。
病に倒れたオシム監督を引き継いだ岡田武史監督の下、予選を突破し、4大会連続出場となったワールドカップ南アフリカ大会には、襟元に赤い四角が入ったデザインのユニフォームで臨んだ。胸元には日の丸が復活、3本足のカラスのエンブレムの上に収まった。遠藤保仁、本田圭佑らの牽引でグループリーグを2勝1敗で見事に突破した。
襟元と袖口に初めて黄色が入ったデザイン。このユニフォームに身を包んだU-23代表は反町康治監督の下、北京オリンピックに出場した。長友佑都、本田圭佑、岡崎慎司らを擁したが3戦全敗、しかし、彼らは後にこの経験を生かす。
2006年ドイツワールドカップへの予選はアジアカップで着たユニフォームで無事突破。本番に向け「サムライブルー」にふさわしく、日本刀をイメージさせる刀文のラインが脇に入ったデザインに。「7番」中田英寿をはじめ、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の「黄金の4人」中心としたチームは本領を発揮できずに1分け2敗で敗退となる。
ジーコ体制となり、ユニフォームも一新されて臨んだ2004年アジアカップ。アウェーの厳しい洗礼を浴びる中国・重慶で数々の困難を乗り越え連覇を達成する。このユニフォームを提供した「5番」キャプテンの宮本は準々決勝のヨルダン戦で、延長PK戦となり、足場の悪さにミスが続くと主審にゴールを変えさせる好判断で勝利に導いた。
1999年FIFAワールドユース、2000年シドニーオリンピック、同年AFCアジカップを戦ったユニフォームから、さらに一度のモデルチェンジを経て、2002年ワールドカップ本番に臨むにあたってよりシンプルなデザインに。このユニフォームでグループステージを2勝1分けと見事に1位で突破した。開催国として恥ずかしくない成績を収めた。
2002年日韓ワールドカップ開催に向けて日本代表はフィリップ・トルシエを監督に迎える。トルシエは持ち前のバイタリティーで、シドニーオリンピックを目指すU-23代表、1999年ワールドユースに出場するU-20代表も指揮。脇と袖の内側に白線の入ったこのユニフォームは3世代の代表が身に着け、トルシエ・ジャパンを象徴した。
ワールドカップ予選を勝ち抜いたユニフォームと同型のものだが、エンブレムの下に「FIFA/WORLD CUP FRANCE 98」の文字がみえるように、フランスワールドカップ本大会で着用されたもの。胸の番号が「8」なのは中田英寿が着たユニフォームだ。彼自身は落ち着いて好プレーを見せたものの、チームは3連敗に終わった。
96年5月のキリンカップから新しく登場したユニフォームは前面の模様がなくなり、シンプルに。襟の合わせの部分の赤と両腕に炎のデザインが施されたところが特徴。フランスワールドカップ予選を戦い、途中監督交代もあって苦しんだが最後はジョホールバルでのプレーオフでイランを下し初出場を決めた記念すべきデザインだ。
92年から使用された日本サッカーの上昇を象徴するようなユニフォームで、ナンバー11はその中心となったカズこと三浦知良のもの。このユニフォームの初舞台となった92年アジアカップでは、日本が初めてアジア王者となり、カズは大会のMVPに選ばれた。しかし、同じユニフォームで1年後には「ドーハの悲劇」を味わうことに。
92年アジアカップで新調されたユニフォームの白を基調としたバージョン。セカンドユニフォームとして使われた。ただし、アジアカップでは出番がなく、「公式戦デビュー」は93年10月のワールドカップ最終予選、ドーハでのイラン戦。1-2で敗れた試合だった。朝鮮民主主義人民共和国戦を挟んで続く韓国戦でも着用され見事に1-0の勝利を飾った。
Jリーグ開幕が決まりプロ化が一気に進んだ日本サッカー界で、92年に広島でアジアカップを開催。この大会に向けて新着されたユニフォームは、かつてない斬新なデザインとなった。これまでの流れから見れば違和感を与えたが、Jリーグスタートの各チームのユニフォームはさらに華やかで、時代の流れに沿ったモデルチェンジと言えた。
横山体制が終わり、初の外国人監督、ハンス・オフトを迎えた新生日本代表が初めに身に着けたシンプルなデザイン。このユニフォームで、92年キリンカップでスタートした「オフトジャパン」は、続いて臨んだ8月のダイナスティカップで初優勝を果たす。ゲンのいいユニフォームとなったが、10月のアジアカップでは新デザインに。
横山謙三体制でユニフォームのカラーを日の丸の赤に、胸のマークも日本サッカー協会のエンブレムに変更された。世界の強豪は国旗のカラーを使っているのが主流で、エンブレムも協会のものが多いということで、それに倣ったものだが、評判はもう一つ。前回最終予選まで進んだワールドカップ予選も1次で敗退し、赤はこの時限りに。
肩の縞模様が印象的なデザインのユニフォームは84年、森体制の日韓定期戦で初披露され、アウェーで韓国を初めて破ってデビューを飾った。その後3年の時を経て、石井義信監督率いられたソウルオリンピック最終予選で再登場。中国をアウェーで1-0と下し、出場まであと一歩と迫りながら、ホームで0-2と敗れ涙を呑んだ。
石井体制スタートの86年キリンカップから着用されたユニフォーム。前年のメキシコ・ワールドカップ予選では韓国の前に力尽きたが、その戦いの中で伝説のFKを決めた木村和司着用のもの。新たなスタートを切った日本代表だが、年末のアジア大会では不成績に終わり、木村はこのユニフォームとともに代表を去ることに。
森孝慈監督の下、ロサンゼルスオリンピック出場をかけて戦った予選で着られたユニフォーム。これは1次予選のニュージーランド戦などで使われた。2位で辛くも突破して臨んだ最終予選では襟が青になるバージョンのものを着用。予選に臨む直前の調子が良く期待されたが、4戦全敗という信じられない結果に終わってしまった。
1979年下村幸男監督体制のスタートとなった日韓定期戦で着用されたユニフォーム。この頃は提供メーカーが交代制で年ごとに代わり、デザインに微妙な変化が見られた。この時は丸首で首周りと袖口が青、袖に二本の青線が入っているが、翌年のモスクワオリンピック予選では青い襟が付き、肩から袖に太い青線が入っていた。
世界への道を阻まれ続けた1970年代のユニフォームで、1976年モントリオールオリンピック予選で着用されたもの。メーカー色が表れ袖に3本線が入っている。実際の試合では左胸に日の丸が入っている。同予選で上着が青、ストッキングが青、パンツが白の試合もあった。6試合2勝1分け3敗で敗退。
栄光の銅メダルを獲得した1968年メキシコオリンピックのユニフォーム。東京オリンピックの時はVネックだったが、メキシコでは丸首になっている。この時も上から下までオール白が基本だったが、銅メダルを決めたメキシコとの3位決定戦だけが青と言うより紺のパンツだった。7ゴールを決めた釜本邦茂は得点王となり、チームはフェアプレー賞も受けた。
1964年東京オリンピックのユニフォームだが、60年代に入って白がメーンとなり、青はセカンドに。本大会でのアルゼンチン戦、ガーナ戦、チェコスロバキア戦とも日本は白のユニフォームでプレーした。チェコスロバキア戦のみパンツだけ青を使ったが、他の2試合は上からストッキングまでオール白で戦い、ベスト8進出を決めた。
戦後初めて参加した1956年メルボルンオリンピックのユニフォーム。全体的にベルリンのモデルを踏襲しているが、胸の日の丸が少し小さくなっている。初めて予選を勝ち抜いて出場した世界大会でもあり、出場権を賭けた韓国との激戦は、2試合を戦って2-0、0-2と1勝1敗、得失点も同点で、抽選によって幸運を引き当てた。
1936年ベルリン・オリンピックに出場した日本代表が着用したユニフォーム。30年極東選手権大会で使用された物より青が濃くなっている。このユニフォームを身に着けた日本は優勝候補のスウェーデンを0-2から3-2と逆転で破る「ベルリンの奇跡」を成し遂げた。ユニフォーム提供者の川本泰三は逆転の口火を切る日本の1点目を決めた。