ワールドカップへの道のり
1993/1997
1993
アメリカ大会 アジア最終予選
『ドーハの悲劇』
1993.10.28 vs イラク ▲2−2
アル・アリ競技場(ドーハ/カタール)
- 5’ 三浦 知良
- 55’ アーメド・ラディ
- 69’ 中山 雅史
- 90’+1’ オムラム・サムラン
Jリーグ開幕イヤーでもある1993年。
後に中東初のワールドカップ開催国となるカタールの首都、ドーハで集中開催されたFIFAワールドカップアメリカ大会アジア最終予選。最終節イラク戦を首位で迎えた日本は、勝利すれば悲願のワールドカップ初出場が決まるー。
しかし、日本の”悲願”は文字通りあと一歩、いや、あと数秒と迫ったアディショナルタイムに潰えてしまう。
2−1とリードして迎えた90分17秒、意表を突いたショートコーナーからイラク代表が同点ゴールを決め、
2−2で試合終了。数分早く終了した他会場の結果によって、日本は最終予選首位から3位に転落。
日本代表のワールドカップでの歴史を語る上で忘れられない『悲劇』の景色がそこにはあった。
1997
フランス大会 アジア最終予選
『ジョホールバルの歓喜』
1997.11.16 vs イラン ○3−2
ラルキン・スタジアム(ジョホールバル/マレーシア)
- 39’ 中山 雅史
- 46’ ホダッド・アジジ
- 75’ 城 彰二
- 58’ アリ・ダエイ
- 118’ 岡野 雅行
『悲劇』から4年経った1997年。
前年にワールドカップ日韓共催が決定した日本にとって、ワールドカップ出場は”悲願”から”至上命題”となっていたー。
ホーム&アウェイ開催となった最終予選、折り返し時点で1位突破の可能性がほぼなくなった日本代表は監督交代を経て、苦しみながらも最終節でアジア第3代表決定戦への出場権を獲得する。
中立地開催となった第3代表決定戦の対戦国はイラン。試合は中山雅史選手のゴールで先制するも、後半立て続けにゴールを奪われ1−2と苦しい展開に。後半31分、途中出場の城彰二選手が起死回生の同点ゴールを奪い、その後は日本のペースで試合が運ぶも両者決勝点を奪えずゴールデンゴール*方式の延長戦に突入。
*ゴールデンゴール:90分間で勝敗が決しなかった場合、延長戦においてどちらかのチームが得点した時点で試合が終了となり、得点をあげたチームが勝者とする、当時採用されていたルール。
延長戦開始と同時に投入されたのは、それまで最終予選一度も出番のなかった岡野雅行選手。
何度もチャンスを決め切れないまま、このままPK戦かと思われた延長後半13分、中田英寿選手のミドルシュートのこぼれ球を押し込んだのは、その岡野選手だった。
ピッチ上の選手もベンチメンバーも、そして遠くマレーシア・ジョホールバルまで駆けつけたサポーターも含め、全員の感情が爆発した『歓喜』の景色が生まれた。
ワールドカップでの挑戦
WORLD CUP
FRANCE
ロスタイムの『悲劇』で失い、延長戦の『歓喜』でようやく掴んだ、
初めてのワールドカップ出場。
そこにあったのは”世代交代”と、”世界との壁”。
フランスの地で、見たことのない景色での戦いが始まった。
KOREA JAPAN
初めてのワールドカップ出場から4年ー。
フランスの地で悲願を果たしたばかりの日本は、
“黄金世代”の活躍によって日本サッカーは飛躍的な成長を見せていた。
そんな日本で、かつては“悲願”だった“夢の舞台”が幕を開けた。
GERMANY
日本で開催された”夢の舞台”を節目に、
多くの選手が主戦場を欧州に移し、”世界との壁”は”日常”になった。
”黄金世代”と呼ばれる選手たちは円熟期を迎え、
”史上最強”とされる日本代表への期待はかつてないほど高まっていた。
SOUTH AFRICA
”史上最強”の挑戦がドイツの地で潰え、
”黄金世代”はいつしかベテランと呼ばれるようになっていた。
予期せぬ監督交代、象徴的選手の不在、そして成績不振。
前回大会とは打って変わって、逆風の中での挑戦が始まった。
BRAZIL
逆風の中でベスト16という結果を掴んだ南アフリカ大会を経て、
多くの選手たちが世界最高峰の舞台で活躍し始めていた。
チームとしても強豪国を相手に渡り合う日本代表への期待は、
いつしか大きな”夢”へと膨らんでいった。
QATAR
『ドーハの悲劇』の舞台となったカタールの地で、
『ロストフの14秒』によってあと一歩届かなかった
ベスト8以上という”新しい景色”を目指す戦いに挑む。
しかし、その挑戦は誰もが厳しいと感じる道のりだった。