ストーリー

【最後の青春ドラマ】自分のぶれない軸を見出した高校時代 ~第98回全国高校サッカー選手権大会・大島僚太(川崎フロンターレ)前編

2019.12.18

第98回全国高校サッカー選手権大会が12月30日(月)に開幕します。高校年代の大舞台に立った選手はどのような青春時代を過ごしてきたのか。ここではSAMURAI BLUE(日本代表)として活躍する大島僚太選手の高校時代のストーリーをお届けします。

「競争に負けたくない気持ち」を培った3年間

SAMURAI BLUEに名を連ねる大島僚太は、2016年にU-23日本代表の一員としてリオデジャネイロ五輪に出場。現在は3年連続でタイトルを獲得した川崎フロンターレの大黒柱として、日本屈指のボランチと称されるほどの存在感を高めている。

大島はサッカーどころとして知られる静岡県静岡市の出身だが、小学校時代は普段からサッカーよりも「読売ジャイアンツの試合を見ていた」こともあり、父親から野球をやるよう勧められていた。両方習いたいと言ったけど、週末の試合では「サッカーをやりたい」という気持ちが強くなり、野球は断念。一気にサッカーにのめり込んでいった。

静岡学園との出合いは中学時代に遡る。小学校時代に在籍した清水FCの選手たちと同じ学校に進学するという選択肢もあったが、進路を悩んだ末に清水エスパルスジュニアユースと静岡学園のセレクションを受けた。そして後者に合格し、中高一貫の学校で自身を磨くことになった。

静岡学園中学校での3年間を経て高校に進むと、本人が「学校生活は勉強よりもサッカーだった」と振り返るほどのサッカー漬けの日々が待っていた。へとへとになるまで練習を行う毎日。心が折れても不思議ではなかったが、そんな時に大島自身を奮い立たせたのが「向上心というより、あらゆる競争に負けたくないという気持ち」だった。

「競争に負けたくないという思いはありました。チームにもそういう空気があったし、そもそもそう教わってきました。『人がやっていない時にやってこそ伸びるんだぞ』『人より練習しなさい』と言われました。誰かが自主練していると『まだ帰れるか!』となって一緒に自主練をする。そういう気持ちは高校で学んだと思います」

高校時代に自身のプレースタイルを確立

学校生活の記憶を尋ねると「やっぱりサッカーの思い出しかないですね」と笑う大島だが、一方で両親への感謝も口にしている。まだ小さかった大島のために運転免許を取得し、送り迎えをしてくれた母親。走ることが嫌いな大島に「そんなことだったら行かなくていい」と怒って「逃げずにやる」ことの大切さを教えてくれた父親。二人の存在が妥協を許さない自分を作り上げたのである。

「これだけサッカーに打ち込んだことで親にも迷惑をかけたと思います。ただ、そこで親のありがたみも感じましたし、親に感謝する気持ちを学ぶことができました」

また、プレー面においては、川口修監督を始めとする指導者の方々が示したサッカーの考え方が、小さい体で相手を翻弄する大島の現在のスタイルにつながっている。

「先生方のほとんどはOBで、卒業後もサッカーを続けていた経験者の先生が“柔よく剛を制す”という言葉をすごく使っていました。中学時代にも『ボールに100万回触れ』と教えられて、『体が強い選手たちにテクニックでなら上回ることができる。体の大きさ、強さが全てではない』と思うということは、それが正解なのかな、と思いましたし、その言葉が自分の中で絶対にぶれない軸になっているのかな、と思います」

「ボールを扱うことは静学でしか身につかなかったと思う」と話す大島は、改めて静岡学園で過ごした日々の意味を説明してくれた。

「もちろん他の学校に行ってもある程度の技術は身についたと思いますけど、技術に特化したスタイルを求め合う仲間と指導者の下で競争することができたからこそ、今の自分の基盤となるものが身についたと思います。静学は個人に目を向けた育成をしていますが、それがなかったら僕はプロにはなれなかったと思いますね」

両親や仲間、指導者たちの下で着々と成長を遂げていった大島。高校2年次まで絶対的なレギュラーになれなかった男は、紆余曲折を経て3年次の一つの大会をきっかけにプロへの扉を開くことになる。

インタビュー中編 ~高校3年時の“運命の出会い”がプロへの道を切り拓く~ 大島僚太選手(川崎フロンターレ)

第98回全国高校サッカー選手権大会

大会期間:2019/12/30(月)~2020/1/13(月・祝)

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