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高倉麻子なでしこジャパン新監督インタビュー Part 1 選手時代に得た世界へ通じる確信
2016年05月29日
なでしこジャパン(日本女子代表)は2016年4月、高倉麻子新監督を迎えて新たな一歩を踏み出しました。新指揮官は、日本女子代表選手として2度のFIFA女子ワールドカップとオリンピック1大会を含め79試合に出場して30得点を挙げ、国内外のクラブでプレーし、日本の女子サッカーの礎を築いた一人。指導者としては育成やアンダーカテゴリーを担当し、FIFA U-17女子ワールドカップコスタリカ2014では日本を優勝に導きました。
選手時代の思い、最近の日本と世界の動き、チームづくりなどについて高倉監督の考えを聞きました。なでしこジャパンでの初陣となる6月のアメリカ遠征を前に、新指揮官の思いを2度にわたってお届けします。
Q:選手時代の国内環境は現在とはかなり違いましたが、どんな思いを抱きながらプレーを続けていたのでしょう?
日本女子サッカーリーグができたのが、私が21歳の時で1989年だったと思います。それまでは静岡と愛知県刈谷で地域のカップ戦がありましたが、全国大会は全日本女子サッカー選手権大会(現・皇后杯)だけで、1年かけてその大会へ準備する感じでした。「女子のサッカーなんて」という時代でしたが、当時、国際的にも国内リーグをしっかりとやっていたところはなかったと思うので、女子サッカーに関わる方々が思い切って作ってくれたリーグが、今の日本の女子サッカーを大きく発展させる一番の要因になったと思っています。
サッカーをやっていた私たちは「上手くなりたい」、「次は勝ちたい」、「仲間といいチームにしたい」と思っていただけです。そういうサッカーに対する根本的な思いや志は今の選手たちと変わらなかったと思います。変わったのは周りの環境ですね。
いつか世界と戦った時にしっかり戦えるようになっていたいという思いも、昔からありました。私が所属していたベレーザ(現 日テレ・ベレーザ)はその頃から世界を意識していたので、自分も自然とそう思っていました。実際には、世界トップレベルのノルウェーやアメリカに勝てるレベルにはなかったのですが、ギリギリのところでオリンピックやワールドカップに出場してベスト8ぐらいでした。そこからの壁がなかなか破れなかったです。
Q:当時、代表選手として戦って、世界との距離感をどう感じていましたか?
運動能力やスピードや力強さに、足先の技術だけでは対抗できないという実感はありましたね。スポーツ選手としてのフィジカルが相手の方が一つ高くて中学生と高校生のような感じです。今は技術的にも戦術的にも組織力も上がって、フィジカルも上がったことで少し対抗できていますが、当時は現在のような組織的なチーム力もなかなか発揮できなかった。ただ、自分でもレベルを上げていって、アメリカと対戦しても通じるものがあるというのはすごく感じていました。
Q:どういう部分でそう感じましたか?
技術的なものやコンビネーションがはまった時は、フィジカル的なマイナスがあっても局面を打開することはできる。相手にぶつからなくていいので、そこを上げていけば勝てるんじゃないかと感じて、私自身は「絶対にできる。もっとやれる」と確信していましたね。
自分自身や全体の力はそこに追いつくまでには成熟していなかったのですが、澤(穂希)選手や後の選手たちは国内リーグや海外でのチャレンジで経験を積んで、そのあたりを研ぎ澄ましていきました。Jリーグができて、日本全体でサッカーを見る機会やトレーニングの内容などに求められるものも変わってきて、「これは当たり前」というサッカーの常識のベース部分が高くなったことも大きかったと思います。今では私が20年前に「通じるな」と思ったものが通じていると感じています。でも、こんなに早く結果が出るとは思わなかったんですけど。
Q:早かったですか?
早いですね。FIFA女子ワールドカップ優勝が2011年。いくら確信があっても他の国も伸びていますし、日本全体で取り組んで磨いていかない限り、結果には届きません。それができたのは、やはり、日本の力です。もちろん、あの優勝チームに良い選手が揃ったというのはありますが、かつて多くの外国籍選手が日本のリーグでプレーしていた時代も含めて、リーグや協会の積み重ねです。この先も、こうして積み上げてきているものがあるので、ある部分が無くなくなっただけでガタッと倒れることはないと思います。若手にも良い選手がいますし。ただ、他国も力を入れてきているので簡単な道ではありません。
なでしこジャパンの監督として、選手の能力を最大限に引き出してグラウンドに送り出す責任があります。選手がいま持っているものを全て出しきって、プラスアルファになるように必死で考えます。でも一人でできることではないので、みんなに助けてもらいながら良いチームにしていきたいと思っています。
Q:世界に通用するものがあると確信があったたことで、選手を長く続け、その後も指導者の道に進んだのでしょうか?
選手としてはまだ上手くなれるんじゃないかと思って、36歳まで続けました。アトランタオリンピックの時は28歳で、大会後は当時の代表監督が世代交代を図ったので代表からは遠ざかりましたが、自分自身はそこからサッカーのことが少し分かって結構伸びたので、それから怪我をする32歳までが自分のベストパフォーマンスだったと思います。そこで代表としてチャレンジできなかったことは非常に心残りです。でも指導者にはなることは考えていませんでした。
Q:では、指導者になったきっかけは?
選手を辞めて2年ぐらい経った頃、前女子委員長の上田栄治さんから育成のサポートの話があって、「私で良ければ」と引き受けたことに始まります。子どもたちが真剣な顔をして一生懸命やっているのを見ると、コーチの仕方もまだよく分からない頃でしたが、なんとか自分の持っているものを選手に伝えていこうと。そこからU-16、U-17と携わって、選手の頑張りでU-17女子ワールドカップでは優勝できました。
Q;これまでの若い年代から今回はトップカテゴリーへ担当が変わってきました。異なるカテゴリーを率いる面白さや難しさは感じますか?
若い年代を率いた時に「多感な選手たちを率いて大変だったでしょう」と言われましたけど、あまりそのようには感じなかったですね。同じサッカー選手ですし、みんな一途にサッカーがうまくなりたいというのがありますから。
U-20の選手は自分の意見を言えて得意なプレーも分かっていますが、U-16やU-17では「自分はこういうことが得意みたいだけどよく分からない」という感じなので、やることをはっきりさせて、導いてあげなくてはなりません。大人の場合は自分の個性を持っているので、考え方が違う場合は話をすることになると思います。
FIFAのTSG(テクニカル・スタディ・グループ)の仕事などでいろいろな国の指導者と話しますが、日本はすごくリスペクトされています。上手くて小柄で頑張っていてクレバーで、誰もが献身的にプレーするところや最後まで諦めない。そういう姿勢がみんなの気持ちを打つのではないかと思います。
昨年の女子ワールドカップのカナダ大会では、見事に決勝まで行きました。選手が積んだ経験のなかで勝ち方を覚えて、すごくスマートな戦い方をしたのだと思います。私もその経験を持った選手たちのパフォーマンスには期待していますし、若手がそれを脅かさないといけないと思っています。
(Part 2へ続く)