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ベルリンオリンピックと青のユニフォーム(後編)
2021年06月09日
2021年9月に創設100周年を迎える日本サッカー協会(JFA)は「サッカー日本代表100周年アニバーサリーユニフォーム」を制作しました。ここでは日本代表のユニフォームが青になり、世界の舞台で初めて輝きを放ったベルリンオリンピックを振り返っていきます。日本サッカーの歴史に造詣が深いサッカージャーナリストの国吉好弘さんにご寄稿いただきました。
ベルリンオリンピックのスウェーデンとの初戦、日本代表は前半を0-2で折り返した。引き上げてくる選手たちの表情は暗かったが、鈴木監督は思わぬ言葉を発した。「今日は皆、とても調子が良いから、後半頑張ればきっと勝てる」。選手たちは驚きながらも再び士気を高め、ピッチに戻った。後半が始まると、「スウェーデンがもう勝ったような気になって多少気が緩んだのと、我々の必死の意気込みとがうまくぶつかったためか、試合が前半ほどスウェーデンに引きずりまわされることなく、だいぶ良くなりました」とFBの堀江忠男は後に機関誌へ寄稿したリポートで振り返っている。日本は本来のプレーを取り戻し、49分にはLW加茂正五がサイドを突破してクロスを送ると、右から走り込んだ右近が折り返し、これを川本泰三がダイレクトで決めた。
試合前に工藤コーチが期待していた通りの攻めで、日本のオリンピックにおける最初のゴールが生まれた。「このとき私には、――外の選手は後で聞くとそうでもなかったらしいですが――この調子なら勝てるぞ!という確信に近い気持ちが一瞬強く閃きました」と堀江は述懐している。その後スウェーデンに押し返されるが、堀江が感じたように日本の選手たちは落ち着いてこれに対処し、62分には再び左サイドを加茂兄弟のコンビプレーで突破、折り返しに走り込んだ川本のシュートは流れるが、走り込んだ右近が見事に蹴り込んだ。
スウェーデンも反撃するが、日本はGK佐野理平の好守などでしのぐ。2-2のまま延長戦突入かと思われた85分、相手DFのミスを見逃さなかったRW松永行が猛然と襲いかかり、ボールを奪うと俊足を飛ばして相手ゴールに迫り、勢いのままシュート。ボールはGKの股間を抜けゴールに転がり込んだ。ついに逆転、日本が3-2とリードを奪った。
残り時間5分は「長かった」(堀江)が、必死に攻め込む相手に日本も粘り強く守り切って、タイムアップ。ついに「奇跡」は起こった。この試合を中継したスウェーデンの放送局のアナウンサーが「ここにもヤパーナ(日本人)、ここにもヤパーナ」と絶叫したことで有名になったように、豊富な運動量と忠実な動きが勝因の一つ。3バックを習熟した戦術面での対応も的確だった。さらに「最後まで試合を捨てぬ我々の執拗な努力は勝利の第一原因と挙げられるべきものであり、ただ精神力の齎した(もたらした)貴い記録と言って良い」工藤コーチが記したように、精神的な強さ、戦う姿勢が最大の勝因だった。
しかし、このスウェーデン戦で全身全霊を尽くした日本にとって、やはり優勝候補(実際に金メダルを獲得する)のイタリアとの準々決勝が、中2日で行われたのはあまりに過酷だった。イタリアは1日休養日が多かったこともハンデになった。スウェーデン戦同様前半から押し込まれ、やはり前半のうちに2点を失った。しかし、今度はここから押し返すことはできず、疲労で動けず後半に6点を奪われて0-8という大差で敗れた。
しかし、スウェーデン戦の勝利で、コンディションさえ整えば世界のトップレベルにも勝つ可能性があることを示した。チームは自信を手にして帰国し、次の1940年には東京で開催されることになっていたオリンピックに照準を定めた。ところが第二次世界大戦へと続く戦争の勢いがすべての希望を奪ってしまう。1938年7月に日本は大会の返上をIOCへ通告する。せっかく高めた日本サッカー発展の気運は断たれた。そればかりではない。戦火は広がり、スポーツをするどころか、ベルリンで輝いた選手たちも戦場へ足を運ばなければならなかった。
運よく生き延びて帰国できた者もいれば、帰らぬ者もいた。控えのFWだった高橋豊二は館山海軍航空隊で訓練中の事故で亡くなり、スウェーデン戦で同点ゴールを挙げた右近はブーゲンビルで、決勝ゴールを決めた松永はガダルカナルで、キャプテン竹内悌三は満州から捕虜として連行されたシベリアで、それぞれ無念の最期を迎えた。
やはりシベリアまで抑留された川本泰三らが何とか帰国して、後にはさらなる日本サッカー発展のために尽くしたが、失ったものはあまりにも大きかった。
ベルリンで「奇跡」を起こしたチームが身に着けていたのはブルーのユニフォームで、6年前の極東選手権で初めて優勝した時のものと同様だった。1930年の極東選手権ではそれまでの単独チーム主体の日本代表ではなく、初めて全国から優秀選手を集めた選抜チームが組まれた。とはいえ、その中心となったのは当時国内最強だった東京帝国大学の選手たちで、その帝大のチームカラーであるライトブルーが採用されたのではないかと推察される。
元日本サッカー協会副会長で日本サッカー殿堂掲額者の田辺五兵衛氏の「服色考(1960年ころ)」には、「昭和五年東京での極東大会で初めて服色をきめた。これ以後同じものを使っている。この時も地味な好みで海にかこまれたとして、国旗をかこむ上衣全体を海とみて青色ということになったのである。」と記載されている。
ここから日本代表のユニフォームがブルーとなり、ベルリンでも快挙を遂げたこともあり、受け継がれてきた。初めてワールドカップ予選を戦った1954年の韓国戦、戦後初の出場を果たした1956年メルボルンオリンピックでも青のユニフォーム。1964年東京、1968年メキシコでは白がメインとなったが、サブのユニフォームは青だった。1980年代終わりから1990年代にかけて一時的に赤のユニフォームとなった時期があったが、成績は振るわず、Jリーグの開幕と時を合わせるように青に戻って、同年ダイナスティカップ、同年アジアカップを初制覇。再び青に定着して現在に至っている。そして今、JFA創立100年を迎えて、かつて初のタイトルを手にし、遠くヨーロッパで奇跡を起こした時代の淡いブルーに回帰、新たな世界への挑戦に向かう「サムライ」たちの身を包む。次の100年へのスタートも幸運のブルーとしたい。
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