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「大切なのは、とにかく被災した人々に寄り添うこと」東日本大震災から10年~リレーコラム 第3回~
2021年03月17日
東日本大震災から、10年の時がたちました。国内外から多くのサポートが寄せられ復旧が進んだ一方で、復興にはまだ長い道のりが残されています。それぞれの立場で、東日本大震災とこの10年間にどう心を寄せ、歩んできたか。ここではサッカー関係者のエッセイやコラムをお届けします。
第3回は、2011年10月から1年にわたって、JFA復興支援特任コーチを務められた加藤久さんのお話を基に当時の活動を振り返ります。
震災直後から個人的な活動を行うには訳があった。加藤久が生まれ育ったのは宮城県利府町。海に面した実家は水没はしたものの、松島湾の島々に波の勢いを弱められ流失は免れた。しかし、幼い頃から慣れ親しんできた近隣の風景は一変し、目の当たりにした瞬間に言葉を失った。地元のために何かをしなければならないというのは、自然の流れだった。
東京から自家用車に、現地で不足しているであろう野菜などの物資を積んで何度も足を運んだ。阪神・淡路大震災のときに支援を受けたことを、今もなお恩義を感じている集団とも知り合った。兵庫県赤穂市から車列を連ねて炊き出しに駆け付けた料理人組合の人たち。彼らとも共同で支援活動を行った。
ただ、支援活動を行う中で、時の経過とともに個人でやることの限界も感じていた。そのようなときに、日本サッカー協会(JFA)の中でも被災地の復興支援を組織的にやろうという話が持ち上がっていた。震災から約半年。2011年10月から、加藤久はJFAの復興支援特任コーチという新たな立場で、被災地と向かい合うこととなった。
「最初に行ったのは被災状況の確認。被災した場所が広範囲に広がっていたので、レンタカーを借りて最初は青森から沿岸を南下しました。その後、仙台から今度は北上。福島も放射能の影響で立ち入り禁止のところまで行きました」
仙台平野に面し、交通の便が良い地域は比較的多くの支援が行われていた。ただ、そこから北に位置する沿岸部の南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡、大槌、宮古などの地域は条件が異なっていた。内陸部を通る東北新幹線や東北自動車道からは遠く離れ、拠点とした遠野などの町からも横移動で2時間近くの時間を要した。その交通の不便さは、残念ながらも支援の厚さに比例していた。
現場のニーズは何なのか。その土地の事は地元の人が一番知っている。窓口となったのは市町村のサッカー協会の人たちだった。そのような人たちは町の行政の仕事をしている人も少なくなかった。必要な物と足りている物のリストアップがされていった。
JFA以外にも他のスポーツ団体やメーカー、個人からも多くの支援が届いていた。ただ、問題はサッカーをする場所がないということだった。インフラがすべて壊れているため、照明がない。夜になると広場があっても使えない。東北の沿岸部は北海道の一部を除いて日本で最も東に位置する。それは日没が日本で一番早い地域ということだった。
子供たちにサッカーをする場を与えたい。蓄電ができ、使い勝手の良い照明器を用意する必要があった。持ち運びの便利さなどを総合的に判断し、選ばれたのはイギリスの軍隊で使用している照明器具だった。子どもたちの希望を照らす明かりは、Jリーグとの連動で各地域に配られることになった。
元日本代表の主将として、知名度も十分だった。その加藤が心掛けたのは、一歩下がった立ち位置で、人々に寄り添うことだった。
「子どもたちのチームの指導者自身も、被災している人がほとんどだった。そういう人たちは子どもたちの面倒を見ると同時に、自分の生活の事も気にしなければならない状況だった。だからサッカー教室をやる場合も、こちらの都合で場所を決めてやるというのではなく、向こうの予定に自分が合わせるという形をとった。被災した人の生活と連動するというのが一番大切だと思いました」
震災前までなら子どもたちに接すれば当たり前のように「お父さんは元気?」などの声を掛けていた。しかし、多くの失われた命の話に接することで、そういうことを言うのが怖くなった。それでも訪問を繰り返すことで、触れてはならないと思っていた話題を相手から口にするようになった。信頼が芽生えたからこその変化だった。
「よく『被災地に勇気を与える』という言葉を使う人がいたけど、力をもらったのはこちらの方。果たして自分がやっていることが正しいのだろうかという疑問を持つこともあったけど、大切なのは、とにかく一緒にいること。そういう感覚でやっていました」
特任コーチを務めたのは1年。すでに任を離れて8年以上の時がたつ。それでも、被災地で積み上げてきた人々と加藤の関係は、いまだ維持されている。(文中敬称略)