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「Jヴィレッジとともに」東日本大震災から10年~リレーコラム 第8回~

2021年03月24日

「Jヴィレッジとともに」東日本大震災から10年~リレーコラム 第8回~

東日本大震災から、10年の時がたちました。国内外から多くのサポートが寄せられ復旧が進んだ一方で、復興にはまだ長い道のりが残されています。それぞれの立場で、東日本大震災とこの10年間にどう心を寄せ、歩んできたか。ここではサッカー関係者のエッセイやコラムをお届けします。

第8回は、東日本大震災発生時にJヴィレッジの副社長を務めていた高田豊治さんを取材し、Jヴィレッジ誕生から、被災し復興に向けて立ち上がった当時の足取りを追いました。

日本初のサッカー専用のナショナルトレーニングセンター。Jヴィレッジは、福島県楢葉町と広野町が貸与した土地に、東京電力がサッカーのピッチも含め130億円をかけて施設を建設した。完成と同時に福島県に寄付し、1997年から運用されることになった。株式会社として運営されるJヴィレッジは、慣例的に福島県知事が社長を務め、副社長は東京電力役員とJFA理事が務める。その中で、実質的な運営統括はJFAの副社長が行ってきた。準備室期間も含めた1996年から、日本サッカー協会(JFA)理事として副社長に就任し、Jヴィレッジ事業を推進してきたのが高田豊治だ。

高田は大学卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。日本リーグの選手として活躍した後に、指導者としてマツダサッカークラブ(マツダSC)で、後に日本代表監督になるハンス・オフトの通訳兼コーチ、札幌マツダの監督を歴任した。Jリーグが開幕した1993年には広島に戻り、サンフレッチェの育成部長として下部組織となるアカデミーの整備を行った。

Jヴィレッジが創設された1997年。地域活性化の起爆剤として、プロジェクトに対する地元民の期待は大きかった。一方でJヴィレッジは、一般のサッカー愛好者から距離があるものとも思われていた。日本代表など限られたエリートチームが使用する施設。認識として、そう捉えられていた。高田は考えた。「地元の人々との距離を縮めなければ、運営はうまくいかないだろう」。さまざまなアイディアが実行されていった。開業以前から住民と積極的に意思疎通を図った。その中で地元の指導者から「地域の子どもたちを指導してほしい」という要望が挙がった。その声をくみ取り、施設オープン後、繁忙期が一段落した夏休み明けにスクールを立ち上げた。最初は小学生、その後に中学生を対象とした指導が始まった。子どもたちの中には、その後に日本代表に名を連ねる選手もいた。通える曜日の関係で、中学生のコースに参加していた髙萩洋次郎は、当時小学5年生だった。

1998年3月。初年度となる97年度の収支は赤字だった。ただ、次年度以降はプラスにできる確信があった。それに合わせ、高田は経営の手直しを行った。立ち上げ時はホテル運営の給食会社に、食事の提供やホテルの仕事を委託していた。運営会社による仕入れは東京で一括して行われていた。見直したのはその点だった。「食材や消耗品の仕入れを地元に切り替えることにした。地元の商工会の人たちに集まっていただいて、それまでの食材や消耗品などの仕入れ値も全部開示した。これと同じ価格で地元の商店さんに協力いただけるのであれば、切り替えますと宣言したんです」。最初は商工会の人々も、Jヴィレッジは県お抱え施設という感覚を持っていたようだった。しかし、高田の「いや、一応株式会社です」の一言で、周囲の見る目は変わった。さらに地元との連携は、宿泊面にも及んだ。夏休みなどの大会が過密になる時期には、Jヴィレッジの宿泊施設だけでは対応しきれない人数が集まった。その溢れた人たちを地元の旅館に割り振りするシステムをつくった。「われわれが恣意的に差配すると、不満が出てきかねない。だから富岡町に旅館組合を結成してもらって、その事務局にオーバーフローする人数の各旅館への振り分けを行ってもらった」。地元の立場からの視点で見た細かな気配り。それが功を奏し、地域住民のJヴィレッジに対する理解は日に日に深まっていった。

医療面でも改善が見られた。地元の広野町、楢葉町には内科医があったが、週末は休診日。発熱やけがをしても搬送できる病院のない無医村地帯になってしまう。そんな時に、幸運な出会いがあった。高田が講演を頼まれた集会で、福島県体育協会の副会長を務める本宿尚(故人)と知り合ったのだ。本宿の本職は、県北部の国見町にある公立総合病院の院長だった。Jヴィレッジを視察してもらった後、この地域が週末に無医村状態になることを知ってもらった。本宿の行動は早かった。県の医師会に働きかけ、数多くの医師がスポーツドクターの資格を取得した。ボランティアの医師たちは、交代で週末毎に泊りがけで通ってくれた。Jヴィレッジに土曜日の夕方から日曜日の午前中まで、医師がいるというシステムができあがった。2002年7月、全国でも珍しい医師のボランティアに支えられた「Jヴィレッジスポーツクリニック」が開設されたのである。

Jヴィレッジの運営が軌道に乗った2003年、高田は一度広島に戻り、サンフレッチェのゼネラルマネジャーなど、複数の役職を歴任した。そして、再び副社長としてJヴィレッジに戻ってきたのは2009年のことだった。ナショナルトレーニングセンターの構想が持ち上がった当初から、高田には成し遂げたいアイディアがあった。海外の施設を視察に訪れた際に、気づかされたことだ。トレーニングセンターには、ドクターとリハビリ等に携わるフィジオセラピストが、常駐しているのが当たり前だった。海外の関係者にも「メディカルセンターは不可欠」との意見をもらった。2009年9月、Jヴィレッジの敷地内に念願だったJFAメディカルセンターが開設された。地域で唯一MRIの検査機器を備え、JFAが直接運営する医師常駐の医療施設だ。Jヴィレッジを利用者だけでなく、地元住民にも大いに活用された。特に年配の方には好評だった。地域には整形外科が存在しなかったこともあり、オープンの日には体に痛みを抱えるお年寄りが、診断待ちの行列をつくる光景も見られた。開設から間もなくし、Jヴィレッジ内のメディカセンターは、地域になくてはならない存在に変わっていった。しかし、それがわずか2年半後に、急に休止に追い込まれるとは、この時、誰も思わなかった。

2011年3月11日の午後、高田は所用で仙台にいた。大きな揺れに見舞われたのは、帰路に就くために車に乗った直後のことだった。目の前に続くアスファルトの道路が、液体のように波打っていた。それは今まで見たこともないような光景だった。Jヴィレッジに帰り着いたのは、深夜1時を過ぎていた。内陸部を通って12時間を要した。体育館には、津波から逃れた楢葉町山田浜の住人約200人が避難していた。翌朝、2回目の炊き出しをし、夜の食事について話していた時だった。国から楢葉町を通して「すぐに避難をしてください」という連絡が入った。「正確な日時は覚えていません。津波の映像とかを見たのはいわき第六小学校に避難移動した翌日の13日夜ですかね。当時は原発の情報は入ってこなかった。避難所はそういう状態でしたね」。3月14日、東京電力から、災害対策の拠点にするためにJヴィレッジを使用したいとの要請があった。高田は15日、妻の実家がある東京へ避難する途中、東京電力の水戸支社に行って自らの手でJヴィレッジの鍵を渡した。さらに、3月19日に東電よりJヴィレッジを自衛隊が利用すること、20日にはJヴィレッジのフィールドを使用し、除染作業を実施したい旨の要請が国からあったとの連絡があった。「原発事故への対応は、国を挙げてなんとかしなきゃいけない問題。これは現実を見極めて、協力せざるを得ないと即座に思いました」。そして、了解と即答し、田嶋幸三専務理事(現、JFA会長)に事後報告した。

震災直後、Jヴィレッジの職員には東京電力や協賛企業からの出向者の他に、現地採用のスタッフがいた。フィットネスジムや営業職など、約25人のプロパーだ。当初、復旧再開には1年以上かかるという目算は、次第に現実的ではないと分かってきた。当然だが、転職のチャンスがある職員には、転職を認めた。それでも17人が残ってくれた。「彼らは既に、地震、津波、原発事故、三つの苦を背負っているわけですね。ここで事業の継続が難しいので解雇ということになると、四重苦を背負わせることになる。それだけは避けなければいけなかった」。最初に考えたのは、プロパーのスタッフの生活を保障することだった。給料に関して、一定以上の収入がある者については減額をお願いし、給与の低い者は全額の給料保障をした。ただ、株式会社として何も事業をしなければ、社内留保している資金もいずれ枯渇する。また、一度会社を閉じてしまうと、二度と立ち上がらないだろうという思いもあった。会社をどのようにして存続させるかを考え、高田は東奔西走した。

2013年7月、JFA内にJヴィレッジ復興プロジェクトが立ち上がった。同時に自らが65歳になったことを機に高田はJヴィレッジ副社長の職を退いた。現在は福島県いわき市にある学校法人昌平黌東日本国際大学のサッカー部総監督を務める。Jヴィレッジ、そして福島の復興をつぶさに見たいという気持ちで、この地に残ろうと決心した。「Jヴィレッジ立ち上げ当初は、自分も指導者をしていたので、施設よりも指導の中身だろうという意識が強かった。でも施設の責任者になって痛感したのは、ハードもとても大切だということ。特にJヴィレッジという施設そのものが貴重なんです」。

今年4月、そのJヴィレッジにJFAアカデミー福島の男子が戻ってくる。まだ福島も含めた被災地は、復興の途中ではある。しかし、未来に向けて確実に一歩を踏み出していることは疑いない。(文中敬称略)

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