日本サッカー殿堂
委員会推薦掲額者(特別選考)
川本 泰三(かわもと たいぞう)
1914年1月17日、愛知県生まれ
早稲田大学卒業
同盟通信社入社後、1941年応召、シベリア抑留後、1949年帰還
川惣電機工業株式会社社長、川惣電材工業株式会社社長
戦前、戦後の日本を代表するストライカー。
早稲田大学在学中に、日本代表選手として、第10回極東選手権大会(1934/マニラ)、第11回オリンピック競技大会(1936/ベルリン)に出場。対スウェーデン戦では、オリンピックでの日本人初ゴールをあげた。
第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)では、コーチとしてチームを率いる。1958年には日本代表監督をつとめ、東京で開催された第3回アジア競技大会に出場。
日本蹴球協会常務理事、大阪サッカー協会会長、関西サッカー協会会長を歴任。
1985年没
Dettmar Cramer(デットマール・クラマー)
1925年4月4日、西ドイツ・ドルトムント生まれ
1960年、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)に向けた強化・指導にあたるため日本代表コーチとして来日。以後、わが国の強化、指導者養成、ユース育成等の礎を築き、日本サッカーの父と称される。第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティー)ではアドバイザー的役割を果たし、日本の3位入賞・銅メダルに多大な貢献をする。
1969年、千葉で開催された第1回FIFAコーチングスクールでは、スクールマスターをつとめる。その後もFIFA専任コーチとして世界70カ国を巡回指導。
1988年、茨城で開催されたFIFAコカ・コーラワールドユースアカデミーでの講師をつとめ、1989年、JFAの招聘により9回目の来日。2年間にわたり特別コーチをつとめる。
本国では、西ドイツ協会コーチ、バイエルン・ミュンヘン、バイヤー・レバークーゼン等のビッグクラブの監督を歴任。バイエルン・ミュンヘンの監督として、ヨーロッパチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)2連覇を果たす。
また、アメリカナショナルチーム監督、サウジアラビア代表監督、韓国オリンピック代表コーチ、サウジアラビアやギリシャのトップクラブの監督をつとめる。
1971年 勲三等瑞宝章、1996年 日本サッカー協会75周年記念功労賞
山田 午郎(やまだ ごろう)
1894年3月3日、福島県生まれ
青山師範学校(現東京学芸大学)卒業
1926年、朝日新聞運動部の記者となり、サッカーの普及・発展に健筆を振るう。サッカー記者の草分け的存在で、1939~1942年まで同運動部長をつとめる。
また、戦前から戦後にかけての長期にわたり、JFA機関誌『蹴球』の編集長をつとめる。
一方で、「朝日招待サッカー大会」の企画・運営に携わり、戦後は、同社の企画部員として、いち早く諸外国の有力チームを招聘するなど、わが国のサッカーの復興と強化にも尽力。
東京蹴球団創設者の一人であり、主将として、1921年第1回全国優勝競技会(現天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝を果たす。
第7回極東選手権大会(1925/マニラ)では監督をつとめる。
1924~1958年までJFA理事。途中、常務理事もつとめる。また、関東蹴球協会副会長、大日本体育協会理事等を歴任。
1958年没
竹腰 重丸(たけのこし しげまる)
1906年2月15日、大分県生まれ
東京帝国大学卒業
東京帝国大学学生主事、農学部事務長、庶務課長から、東京大学講師、同教授、芝浦工業大学教授
日本代表として、第7回極東選手権大会(1925/マニラ)、同第8回大会(1927/上海)、同第9回大会(1930/東京)出場。第9回大会では主将をつとめ、初の優勝に輝く。
第11回オリンピック競技大会(1936/ベルリン)ではコーチをつとめる。1951年、日本代表監督に就任し、第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)出場を果たす。
1951~1957年まで国際審判員としても活躍。同じくメルボルンオリンピックでは主審として笛を吹く。
また、高校時代には直接チョー・ディンの技術指導を受けている。以後、いち早く技術の重要性を説き広めた功績は大きく、日本サッカーの技術史上に名を残す。
1929~1974年までの45年間、JFA理事として協会の発展に力を注ぐ。1948年には初代理事長に就任。1974年の財団法人化にも尽力する。
日本体育協会理事、日本オリンピック委員会委員等をつとめ、わが国のスポーツ振興にも多大なる貢献をする。
1967年 藍綬褒章、1976年 勲三等瑞宝章
1980年没
田辺 治太郎(第14代 田辺五兵衛)(たなべ じたろう)
1908年3月18日、大阪府生まれ
大阪商科大学(現大阪市立大学)卒業
田辺製薬株式会社取締役社長
1945~1946年、日本蹴球協会会長代行を経て、1946年、副会長に就任。戦後の混乱期に、サッカーの復興に心血を注ぐ。
第11回オリンピック競技大会(1936/ベルリン)の派遣費用として多額の寄附を行うなど、戦前から戦後にかけて財政的にも日本サッカー界を支える。
また、戦前より関西蹴球協会設立に尽力し、初代会長をつとめるなど、関西地区のサッカーの普及、発展にも寄与。
1920年代に田辺製薬サッカー部を創設。実業団チームの先駆けであり、戦後は、社会人サッカーのリーダー的存在となった。
内外のサッカー事情に詳しく、JFA機関誌等を通してサッカーの情報を広く提供してきた功績は大きい。特に、1962~1971年まで機関誌『サッカー』に連載された「烏球亭雑話」が有名である。旧蔵の収集品と文献を「田辺文庫」に残し、その業績を広く後世に伝えている。
1972年 勲三等瑞宝章
1972年没
村形 繁明(むらかた しげあき)
1913年5月11日、東京都生まれ
早稲田大学卒業
三井物産株式会社カルカッタ支店長、機械部長を経て、三井海洋開発株式会社常務取締役
第3回アジア競技大会(1958/東京)決勝の主審をつとめるなど、1951年より国際審判員として活躍。
JFA審判委員長、日本審判協会会長等をつとめ、日本サッカー審判界をリード。後継者を数多く生む。
1960年代はじめの三井物産株式会社ロンドン支店勤務時代には、JFAの代表として現地で協会の任務を遂行。FIFA総会への出席等、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)の準備にも奔走した。
日本サッカー協会理事、関東サッカー協会理事を歴任。
岩谷 俊夫(いわたに としお)
1925年10月24日、兵庫県生まれ
早稲田大学卒業
神戸一中(現県立神戸高校)、早稲田大学でプレーし、学生ナンバーワンプレーヤーとして数々の偉業を達成。卒業後は、共同通信社、毎日新聞社でサッカー記者として活躍するとともに指導者としても功績を残す。
1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)に出場し、3位決定戦のアフガニスタン戦で2得点を決め銅メダルに貢献。その後、1956年第16回オリンピック競技大会(メルボルン)アジア予選まで日本代表として活躍。同予選では、韓国と1勝1敗の引き分けの末、主将として抽選に臨み本選への出場を引き当てた。Aマッチ出場8試合、4得点。
1955年ビルマ遠征日本代表チームコーチ、1960年第2回アジアユース大会では監督をつとめ3位。東京オリンピックに向けた選手強化本部では第一指導部長として、長沼・岡野体制をバックアップし、代表の強化に尽力した。1965年に関西協会技術委員長就任後は関西地区のサッカーの発展にも携わる。
少年サッカーの普及にも情熱を注ぎ、神戸少年サッカースクールや大阪スポーツマンクラブ少年サッカースクールの設立、指導にも尽力し、少年サッカー指導の為全国を奔走した。
また、『全国高校サッカー四十年史』(毎日新聞社、1962年)の編纂を手がけ、高校サッカーの歴史を今に伝えている。
1970年没
小野 卓爾(おの たくじ)
1906年7月14日、北海道生まれ
中央大学卒業
1935年にJFA代議員に就任し1976年専務理事を退任するまでの(終戦直後を除く)約35年間、サッカーの普及・発展に向けた事業の推進や戦後の日本サッカー界の再建に尽力した。
1935年第2回日満親善蹴球大会では日本代表選手団団長。1936年第11回オリンピック競技大会(ベルリン)ではチームに帯同し総務全般を担当した。
戦後は1951年に常務理事に就任。財政状況の苦しい中で総務・財務といった実務を担当し、協会組織の活性化を図るとともに、D.クラマー氏の招聘、日本代表チームの海外派遣や外国チームの招聘を積極的に推し進め、日本サッカーの国際的な活躍のための礎を築いた。1974年、協会の財団法人化に伴い専務理事に就任。
1964年第18回オリンピック競技大会(東京)や1965年、1971年アジアユース大会(いずれも日本)では、運営の中心として大会の成功に貢献した。
一方、中央大学監督として終戦直後から地方遠征を積極的に行い、地方のサッカー振興に貢献。1962年第42回天皇杯全日本選手権大会では古河電工を破り、学生単独チーム優勝を果たした。
1968年 藍綬褒章、1978年 勲四等瑞宝章
1991年没
賀川 太郎(かがわ たろう)
1922年8月9日、兵庫県生まれ
神戸経済大学(現神戸大学)卒業
神戸一中(現県立神戸高校)、神戸経済大学(現神戸大学)、田辺製薬、大阪クラブでプレー。神戸一中では、1938年第20回全国中等学校蹴球大会優勝、1939年度は主将として第10回明治神宮国民体育大会優勝を果たす。戦後、復学した神経大では1946年関西学生リーグ優勝。
1948年入社の田辺製薬では、1950年第3回全日本実業団選手権に優勝以来、1957年まで6連覇を含む優勝7回。その間、1950年の実業団選手権予選以来94戦93勝1分という無敗記録樹立に貢献、田辺製薬の黄金期を築いた。
また同時期、大阪クラブ(川本泰三氏の提唱により創設)では岩谷俊夫氏らとプレーし、天皇杯全日本選手権大会では1951年第31回大会から3年連続で決勝に進出した。
日本代表として、1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)、1954年同第2回大会(マニラ)、1954年ワールドカップスイス大会アジア予選に出場。レベルの高いボールテクニックと戦術眼を持ち、日本代表でも右ウィングの?田氏とのコンビで活躍。ベルリンオリンピック以降の戦前のサッカーの上昇期を知る選手として、戦後の混迷期に日本サッカーの存続と技術の向上に努力した世代の一人である。Aマッチ出場5試合。
1990年没
篠島 秀雄(しのじま ひでお)
1910年1月21日、栃木県生まれ
東京帝国大学卒業
三菱化成工業株式会社取締役社長、株式会社三菱化成生命科学研究所初代代表取締役
日本経営者団体連盟副会長
東京高等学校、東京帝国大学でプレー。帝大では、1930年度主将として東京カレッジリーグ5連覇を達成、帝大の黄金時代を築く(帝大は1931年まで6連覇)。また1930年には第9回極東選手権大会(東京)に出場、中華民国戦でゴールを決め、初の極東制覇という快挙を成し遂げた。戦前を代表する名プレーヤーの一人。
JFAでは、戦後の復興期から財団法人化(1974年)にかけた経営的に困難な時代において、20年以上にわたり常務理事、理事長、副会長(1965年就任)をつとめ、日本代表の積極的な海外派遣や海外チームとの交流に力を注ぐなど、日本サッカーの再起、発展を支えた。
会長就任を望む声も強かったが、自身の病気もあり、高校・大学以来の友人平井富三郎氏を推し、1975年に副会長を退任。副会長時代は関東協会会長も兼ねる。
また、1968年、三菱商事の諸橋氏らとともにテレビ東京「三菱ダイヤモンド・サッカー」の放映を実現。情報の乏しかった時代に世界トップクラスのプレーを定期的に放送し、サッカーの普及、発展に大きく寄与。後の日本サッカー繁栄の種をまいた。
1969年 藍綬褒章、1975年 勲一等瑞宝章
1975年没
竹内 悌三(たけうち ていぞう)
1908年11月6日、東京都生まれ
東京帝国大学卒業
東京府立第五中学校(現都立小石川高校)でサッカーをはじめ、浦和高等学校、東京帝国大学でプレー。帝大では竹腰重丸氏の後継者としてセンターハーフで活躍し、帝大の黄金時代を築いた。
その後ディフェンダーに転向し、1930年の第9回極東選手権大会(東京)で国際舞台を踏む。フィリピンを破り、決勝で中華民国と3-3で引き分け、優勝を分け合った。
1936年第11回オリンピック競技大会(ベルリン)では主将。入村式では旗手の重責を担った。1930年の極東大会制覇の唯一の経験者でもあり、チームからの信頼も厚く、また、3FB制という新技術に対する優れた理解力と実行力で優勝候補の一角、スウェーデンを破る快挙に大きく貢献した。
オリンピック後は、単身ヨーロッパ各地を訪ね、現地のサッカー事情をJFAへ報告、世界の最新情報を提供することで日本のサッカーの技術向上に貢献した。
JFA代議員、関東協会理事、第12回オリンピック競技大会(幻の東京オリンピック)蹴球準備委員会審判部次長・技術部委員をつとめ、技術指導、審判育成に力を注いだ。
1946年4月12日、シベリア抑留中に病没
玉井 操(たまい みさお)
1903年12月16日、兵庫県生まれ
早稲田大学卒業
明治学院中学部、早稲田第一高等学院、早稲田大学でプレー。チョー・ディン氏の指導の継承者でもあり、早稲田サッカー創成期の中心メンバーの一人。在学中の1927年、第8回極東選手権大会(上海)に出場し、中華民国戦で1ゴールをあげる。
1931年関西蹴球協会兵庫支部長に就任、以降、兵庫県協会初代会長(1939年就任)、関西協会会長(1957年就任)をつとめ、関西地区及び兵庫県のサッカーの普及・発展に尽力した。
JFAでは1951年に常務理事就任、その後、1957~76年の約20年間にわたり副会長をつとめ、第18回オリンピック競技大会(東京)の開催や各種サッカー事業の推進に力を注ぎ、日本サッカー界の復興と発展を支えた。
また、1965年、兵庫サッカー友の会が全国に先駆けて開設した神戸少年サッカースクールの初代校長に就任。1970年には友の会を発展させ、日本サッカー界初の法人組織(社)神戸フットボールクラブを発足させ初代会長に就任。少年サッカーの普及と発展に貢献した。
1966年 藍綬褒章、1974年 勲三等旭日中綬章、1978年 銀杯
1978年没
鴘田 正憲(ときた まさのり)
1925年6月24日、兵庫県生まれ
関西学院大学卒業
神戸一中(現県立神戸高校)、関西学院大学、田辺製薬でプレー。巧妙なドリブルとセンタリングを武器に大活躍した戦後最高の右ウィング。
神戸一中では岩谷俊夫氏らとともに明治神宮大会の連覇(1941、2年)、第1回橿原神宮大会優勝(1942年)を達成し、1943年度主将をつとめた。戦後復学した関西学院大学では、関西学生リーグ2連覇や1948年の学生王座に貢献。
田辺製薬では、入社1年目の1950年第3回全日本実業団選手権で初優勝、以後、神戸一中の先輩である賀川太郎氏との右サイドのコンビプレーを軸に大会6連覇(1957年まで通算7回優勝)を達成、94戦93勝1分という無敗記録樹立の立役者となった。また、全日本選手権では、全関学(関学クラブ)の主軸として優勝4回。
日本代表として、1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)、1954年同第2回大会(マニラ)、1954年ワールドカップスイス大会アジア予選に出場。1956年第16回オリンピック競技大会(メルボルン)アジア予選第1戦では最年長選手として出場、攻撃の起点として活躍し、アジアの強国韓国に初勝利する快挙に貢献した。チームの精神的な柱であり、主将としてオリンピック本大会出場。戦後復興期の日本サッカーを技術力と精神力で支え、次世代につなげた功労者の一人。Aマッチ出場12試合、2得点。
2004年没
新田 純興(にった すみおき)
1897年1月14日、北海道生まれ
幼名 稜威丸(みいつまる)
東京帝国大学卒業
1921年のJFA創設においては、組織運営、競技規則の翻訳や指導書の作成など多方面にわたり尽力。全国優勝競技会(現天皇杯全日本サッカー選手権大会)の発足にも貢献し、日本サッカー界の礎を築いた。1922年には大学専門学校4校リーグ(1924年から東京カレッジリーグ)、1923年には全国高等学校ア式蹴球大会を創設し、学生サッカーの継続的強化の基盤作りにつとめた。
1935年JFA理事に就任。翌年のオリンピックベルリン大会に向け財務を担当し、遠征費用捻出に奔走。1940年の第11回明治神宮国民体育大会では練成部長をつとめた。
戦後は1962年常務理事に就任。オリンピック東京大会に向け、会場設営を中心に準備に携わり、大会の成功に貢献した。
また、日本サッカー史研究の第一人者としても名高く、FIFAやイングランド協会を訪ねて自ら資料収集し、日本のサッカー史を掘り起こした成果を『日本サッカーのあゆみ(日本蹴球協会創立満50年記念出版)』(講談社、1974年)に著す。
日本体育協会理事としてスポーツ界の戦後復興にも尽力。日体協とJFAの橋渡しをつとめ、天皇杯下賜にも寄与した。
1972年 勲五等双光旭日章
1984年没
二宮 洋一(にのみや ひろかず)
1917年11月22日、兵庫県生まれ
慶応義塾大学卒業
神戸一中(現県立神戸高校)、慶応義塾大学でプレーし、国内屈指のセンターフォワードとして活躍。神戸一中では、1934年に全国中等学校招待大会を含む4大会で優勝。慶大では、1937年からの関東大学リーグ4連覇をはじめ多くのタイトルを獲得し、慶応ソッカー部の黄金期を担う。また、戦前戦後を通じ、慶応大学、慶応BRBの主軸として全日本選手権7回優勝という偉業を成した。
1951年、戦後初の国際大会である第1回アジア競技大会(ニューデリー)では選手兼監督として出場し、銅メダルを獲得。1954年には、ワールドカップスイス大会アジア予選、第2回アジア競技大会(マニラ)出場。その後は、オリンピックメルボルン大会に向けた日本代表チームのコーチングスタッフをつとめた。選手としての活躍だけでなく、代表監督としても卓越した指導力で日本サッカーの競技力向上につとめた功績は極めて大きい。Aマッチ出場5試合、1得点。
また、慶大では、1952年に監督として関東大学リーグ、東西学生1位対抗戦ともに優勝、1969年には総監督として全国大学選手権優勝を果たした。
JFA理事、監事、関東協会理事、関西協会理事、全国サッカークラブユース連合(U-18)会長、日本クラブジュニアユースサッカー連盟(U-15)会長、日本サッカー後援会理事長を歴任。
2000年没
福島 玄一(ふくしま げんいち)
1911年4月6日、宮城県生まれ
日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)卒業
東京府立第五中学校(現都立小石川高校)でサッカーをはじめ、日本歯科医学専門学校、第一生命等でプレー。
1936年第16回全日本選手権(兼第2回全日本総合選手権)で線審をつとめた、以後JFAの審判として活動し、審判技術の向上や審判界の組織化に多大な貢献をした。
1958~66年、1967~70年国際審判員。1961年第5回FIFA審判研修会(フィレンツェ)に出席。アジアユース大会やムルデカ大会等海外での審判経験も積み、1964年第18回オリンピック競技大会(東京)ではハンガリー対ユーゴスラビア戦の主審をつとめた。1969年、国際Aマッチ10試合以上という当時としては厳しい条件をクリアし、日本人初のFIFA審判特別功労賞(FIFA Referees’ Special Award)を受賞。JSL主審22試合(1965~70年)。
一方、審判委員会の設置や審判制度の確立に尽力し、1965~71年JFA理事・審判委員長をつとめた。また、審判指導員制度の充実にも力を注ぎ、後進の指導、育成に貢献。関東協会審判統制委員長、日本サッカー審判協会副会長等を歴任。
杉並区サッカー連盟会長、杉並区体育協会副会長をつとめ、地元杉並のサッカーの普及、発展にも大きく貢献。1984年には文部大臣より体育功労者表彰を受ける。
1994年没
坪井 玄道(つぼい げんどう)
1852年1月9日、千葉県生まれ
幼名、仁助体操伝習所主任教師、東京高等師範学校教授、東京女子高等師範学校教授、東京女子体操音楽学校名誉校長。学校体育の父、女子体育振興の功労者。 わが国におけるサッカー普及の祖。学校体育や部活動におけるサッカー発展の端緒を開く。
体操伝習所(1878年開設。後、高等師範学校に吸収される)で体育教員の養成にあたり、軽体操を指導するとともに屋外スポーツの必要性を説く。1885年刊行の『戸外遊戯法一名戸外運動法』(田中盛業との共著)で屋外運動の一つとしてサッカーを紹介。この第17項「フートボール」が日本語で書かれた最初のサッカー解説書となり、本書及び改訂版は後の体育書に影響を与え、サッカーが学校教育の中に位置づけられるきっかけをつくった。
また、1901~2年の欧州視察の際、サッカーの心身両面における教育的価値を再認識し、帰朝後もその普及につとめた。部長をつとめていた東京高等師範学校蹴球部は、氏が持ち帰った書を参考に、氏の意見と校閲を受け、『アッソシエーションフットボール』(1903年)、『フットボール』(1908年)を刊行した。これらは、サッカーの仕組みを詳説したわが国初のサッカー専門書であり、サッカーの普及に寄与するものであった。自身も師範学校及び附属小学校でサッカーの指導を積極的に行い、彼の薫陶を受けた教員や蹴球部員の手によってもサッカーは各地の学校に広まった。また、同校蹴球部を中心に大学や高専の運動部においてもサッカーは発展を遂げた。
内野 台嶺(うちの たいれい)
1884年4月29日、神奈川県生まれ
幼名、城田作三
東京高等師範学校卒業
漢文学者。東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授。駒澤大学文学部長。曹洞宗大乗寺住職。
東京高等師範学校(以下、高師)で校友会蹴球部部長をつとめていた1919年、大日本体育協会会長・高師校長の嘉納治五郎氏とともにイングランド協会よりFAカップを受領。英国大使館のヘーグ書記官らからイングランド協会の運営や大会規約等について教示を受け、組織作りに尽力するとともに会長の決定(初代会長に今村次吉氏就任)にも奔走するなど、1921年のJFA創設に無尽の貢献をした。JFA創設後も初代理事の一人として運営の中心を担った。また、1931年に採用されたJFAのシンボルマーク「三本足烏」は、内野らの発案を日名子実三氏がまとめたものである。
高師在学時から選手としてだけでなく指導にも携わり、1909年に赴任した豊島師範学校では部の強化を図りサッカーを普及させた。その後高師に戻り、蹴球部長としてサッカーの指導、普及に貢献した。
1917年、高師、豊島、青山の三師範を中心としたわが国初のクラブチーム『東京蹴球団』を結成させ、日本サッカーの底上げと普及に力を注ぎ、学校中心であったサッカー界に新風をもたらした。
1918年に東蹴主催で始まった関東蹴球大会では大会委員長をつとめるなど関東のサッカーの発展にも尽力し、後、関東協会会長をつとめた。
1941年 勲三等瑞宝章
1953年没
Kyaw Din(チョー・ディン)
1900年6月、ビルマ生まれ
サッカーの指導と理論の伝授により、大正~昭和初期に日本サッカー界に画期的な技術的進歩をもたらしたビルマ(現ミャンマー)出身の留学生(東京高等工業学校。現在の東京工業大学)。
1920年頃から東京高等師範学校附属中学校等で指導を始め、鈴木重義氏の要請により指導した早稲田高等学院は、1923年に始まった全国高等学校ア式蹴球大会で2連覇をなした。それにより氏の指導力の高さに注目が集まり、全国の学校で巡回指導が始まった。キックやパス等の基礎から、パスをつないで攻めるショートパス戦法まで、実技と理論を教え、その結果日本サッカー全体の技術力が向上し、国際舞台での活躍の基盤が整った。
また、指導のテキストとして、How to Play Association Football を執筆。1923年8月、教え子らの協力により日本語版が出版される。当時のわが国にはない、写真や図を多用した、技術や戦術に関する具体的且つ理論的なテキストであった。
氏の指導を受けたチームはショートパス戦法を軸に躍進し、選手、指導者はその後の日本サッカー界を牽引。特に、鈴木氏が監督をつとめ、竹腰重丸氏を中心に東大主力で挑んだ1930年の極東選手権大会では初の東アジア制覇。ここに日本サッカーは独自のスタイルを確立し、戦術的伝統の基盤が作られた。その躍進は6年後のベルリンオリンピックでの快挙にも及んだといえる。
1924年に帰国。その後の消息は不詳である。
鈴木 重義(すずき しげよし)
1902年10月13日、福島県生まれ
早稲田サッカーの始祖。チョー・ディン氏の指導を日本サッカー界にもたらし、選手、指導者としても国際舞台で活躍した日本サッカー黎明期の功労者の一人。
早稲田高等学院・早稲田大学でア式蹴球部を立ち上げ、卒業後はOBを加えた早稲田WMWを結成。早高では、チョー・ディンの指導を得て技術的な強化を図り、全国高等学校ア式蹴球大会(旧制インターハイ)で優勝。これによりチョー・ディンの指導が各地に波及し、日本サッカー全体のレベルアップにつながった。大学では、東京カレッジリーグ(現関東大学リーグ)の設立に関わり、1925年選手としても初代王者に輝く。
1927年、早稲田WMWが主力となって出場した第8回極東選手権大会(上海)では主将をつとめ、フィリピン戦で国際公式試合初勝利を挙げた。監督として、1930年第9回極東選手権大会(神宮)では中国と引き分け同位優勝、東アジアトップの座を得、1936年のベルリンオリンピックでは、工藤、竹腰両コーチをバックアップし、強豪スウェーデンとの逆転劇を成功させ、日本の名を世界にとどろかせた。
1928年、野津謙氏との共著『ア式蹴球』(アルス運動大講座)を出版し、サッカーの普及に貢献。
JFA創設時は競技委員として全国優勝競技会(現天皇杯全日本選手権大会)の運営に携わり、1929年に常務理事、1931年主事に就任し、JFAの組織の充実にも尽くした。
大日本体育協会理事・専務理事、早稲田WMW会長などを歴任。
1971年没
William HAIGH(ウィリアム・ヘーグ)
1891年3月14日、英国生まれ
1913年、英国大使館の通訳研修生(Student Interpreter)として来日。書記官補(Second Assistant)を経て、1920年より横浜副領事(Local Vice-Consul)。
英国大使館チームの一員としてプレーする一方で、1918年9月、英国大使館杯争奪リーグ(英国大使館チーム、東京蹴球団、東京高等師範学校など強豪チームが参加)を組織し、指導、運営の両面から支援するなど、日本サッカーの普及に寄与。
日本サッカーの発展を強く願っていた氏は、当時のグリーン在日英国大使に、全国大会優勝チームに授与するためのFA(イングランドサッカー協会)杯の寄贈を提案し、実現のために奔走した。これが契機となって1921年9月に大日本蹴球協会が創設され、全国優勝競技会(現天皇杯全日本選手権)が始まった。母国の英国においても、FA杯の寄贈は日英親善に貢献したとして高く評価されている。
また、FAの組織体制やFAカップ大会の運営方法の助言を行うなど、JFAの創設においても尽力。初代JFA賛助員の一人として名を連ねる。 1923年9月1日、領事館での執務中、関東大震災に被災し犠牲となった。氏の功績を称えるため、同年12月に追悼のサッカー大会が、また翌年には「ヘーグメモリアルカップ」が開催された。
享年32歳、横浜外国人墓地に眠る。
手島 志郎(てしま しろう)
1907年2月26日、台北生まれ(広島県出身)
広島高等師範学校附属中学校でサッカーを始め、広島高等学校、東京帝国大学、帝大LBでプレー。主にセンターフォワードとして活躍した、戦前の日本を代表するストライカーの一人。
広島高校では、1926年全国高等学校ア式蹴球大会準優勝、1928年優勝(1927年は天皇崩御で中止)。1929年、関東大学リーグ4連覇に挑む帝大に入学し、秋のリーグ戦からレギュラー出場、篠島秀雄氏とのコンビで帝大の黄金時代を築き、1931年、関東大学リーグ6連覇を達成した。 1930年、JFA創設後初めて選抜チーム(日本代表)で臨んだ第9回極東選手権大会では、東アジアの強豪・中華民国戦で貴重な先制点を含む2ゴールを決めるなど、2試合で3得点の大活躍をみせ、国際大会における初のタイトル獲得の立役者となる。身長152cmという体格ながら、独特のステップと身のこなし、抜群の俊敏性を武器に相手ディフェンダーをすり抜ける得意のプレーで幾度となく日本のチャンスを作り出した。 1947年の東西対抗試合(天覧試合)では全関西代表の監督をつとめた。その後、田辺(田辺製薬サッカー部)の強化に携わり全日本実業団選手権大会6連覇(1950~55年)に貢献。
関西サッカー協会理事
1982年没
高橋 英辰(たかはし ひでとき)
1916年4月11日、福島県生まれ
小学校4年でサッカーを始め、刈谷中学、早稲田高等学院、早稲田大学を経て、1941年より日立製作所でプレー。
1955年に早稲田大学監督に就任し、関東大学リーグ2連覇。1957年、第3回アジア競技大会に向けた強化のための中国遠征で日本代表を率い、1959年、日本ユース代表を初めて編成して臨んだ第1回アジアユース大会では3位の成績を収めた。1960年正式に日本代表監督に就任。FIFAワールドカップチリ大会予選、第5回ムルデカ大会、第4回アジア競技大会などを戦い、D.クラマーコーチとともに2年間、東京オリンピックに向けた日本代表の強化に取り組んだ。
1969年、低迷の続く日立の監督に就任。当時のJSLは、東洋工業4連覇の後、スピードを重視した三菱と、個人技主体のヤンマーがリードする時代に入っていたが、高橋はサッカーの不滅の基本である「走る」ことを強調、スターのいないチームを「入れ替え戦組」から一挙に上位に押し上げるとともに、1972年度にはJSL1部、天皇杯全日本選手権ともに初優勝を果たして「基本の重要性」を再認識させた。1975年度第55回天皇杯全日本選手権にも優勝するなど、創部以来関わってきた日立のサッカーを再興し、柏レイソルへの基礎を固め、1976年に退任。
1979~86年JSL総務主事として活躍、リーグ事務所をサッカー協会内から独立させ、斬新なデザインのリーグポスターで話題を呼ぶなど、リーグの活性化に力を注いだ。
2000年没
大谷 四郎(おおたに しろう)
1918年4月23日、兵庫県生まれ
兵庫県立第一神戸中学校で2年連続全国大会優勝、第一高等学校を経て、1939年東京帝国大学に入学。得点力のあるFWとして活躍し、関東大学リーグ優勝2回、東西学生王座決定戦優勝1回。
戦後は、大阪サッカークラブや東大LBでプレーを続ける一方、関西協会所属のコーチとしても活躍。1947年東西対抗(天覧試合)では関西の若手を鍛え、ベテランを擁する関東と互角の勝負をみせた。また、1953年西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現ユニバーシアード競技大会)では、コーチとして次世代の選手の育成に携わった。
1948年に朝日新聞社運動部記者となり、紙面を通じてサッカーの普及につとめ、一方で、全日本実業団選手権、朝日招待サッカー(国内試合)、朝日国際サッカー(日本代表強化のための国際試合)など朝日新聞社の後援事業の開催・運営にも尽力した。1973年からはフリーランスとしてサッカー専門誌を中心に執筆活動を続け(本名とともにペンネーム「秋庭亮」でも執筆)、組織・運営から技術・指導に至る幅広い視野で日本サッカーの将来を予見しつつ、着実な進歩を説いた。
その先見性は現場にも活かされ、1970年結成の社団法人神戸FCでは、初めての年齢別会員登録制度を採用して、後のサッカー界変革の布石を打った。
1990年没
丸山 義行(まるやま よしゆき)
1931年10月28日、栃木県生まれ
栃木県立今市高校、中央大学でプレーした後、審判員としてのキャリアをスタートさせ、
日本のトップレフェリーの一人として活躍。1961~76年国際審判員。
1964年東京オリンピックで線審(副審)、1968年メキシコオリンピックでは、グループリーグ・ハンガリー対ガーナ戦の主審をつとめた(オリンピックでの主審は、東京オリンピックでの福島玄一に次ぎ日本人として2人目)。1970年、FIFAワールドカップメキシコ大会では、日本人初となるワールドカップでの審判に任命され、ペルー対ブルガリア戦等2試合で線審(副審)をつとめた。1979年、15年間に及ぶ国際審判としての実績により、FIFA審判特別功労賞受賞。JSL1部では、主審62試合(1965~76年)。
その後は、審判員としての豊富な経験と指導者の立場から、日本のみならずアジアのサッカーレフェリー界の発展に尽力。また、JSL、Jリーグの規律委員長として(1985~2002年)、フェアプレーの徹底を信条にトップリーグの現場で審判員の統率、育成に力を注いだ。
1955年から指導にあたっている中央大学ではチームを数度の全国制覇に導くとともに、40年以上に亘り学生を率いて巡回指導を展開、日本各地でサッカー普及の芽を育てた。その功績により2001年IOC・FIFAより国際ボランティア年表彰を受けた。
賀川 浩(かがわ ひろし)
1924年12月29日、兵庫県生まれ
神戸市立雲中小学校5年でサッカーを始め、神戸一中(現県立神戸高校)、神戸経済大学(現神戸大学)、大阪クラブなどでプレー。東西学生選抜対抗出場、全日本選手権準優勝2回の経験を持つ。
1951年スウェーデン・ヘルシングボーリュの来日を地方紙に寄稿したのがきっかけとなり、スポーツ記者の道を歩む。1952年産経新聞社に入社し、サッカーのみならず様々なスポーツの取材を続け、1974~84年サンケイスポーツ(大阪)編集局長、定年退職後はフリーランスとして、足かけ60年にわたりサッカージャーナリストとして活躍。その間、FIFAワールドカップは1974年西ドイツ大会以来2006年ドイツ大会まで9大会連続で現地取材をこなし、ヨーロッパ選手権も5回取材した。国内で行われた国際大会はもとより、JSL、Jリーグとも開幕から足を運び、『サンケイスポーツ』紙だけでなく、各種サッカー雑誌などで健筆を振るい、技術論から人物史まで様々な角度から世界と日本のサッカーを書き続けてきた。なかでも『サッカー・マガジン』誌で74年から連載してきた「ワールドカップの旅」は、紀行形式という斬新な方法で世界各地のサッカーを紹介するとともに、サッカーとサッカーを愛好する人々に対する筆者の深い愛情が見事に表現され、日本のファンに世界のサッカーの知識を提供するとともに、夢をかきたて続けた。
執筆活動以外でも、1964年東京オリンピック5、6位決定戦(大阪トーナメント)の開催、社団法人神戸フットボールクラブの創設にかかわり、関西サッカー協会役員としても長く活動するなど、サッカーの興隆のために尽力した。
大畠 襄(おおはた のぞむ)
1930年11月25日、東京都生まれ
旧制成城高等学校尋常科でサッカーを始め、成城高等学校及び東京慈恵会医科大学でプレー。
同大整形外科、形成外科学教室を経て1984年教授。翌年同大健康医学センターに、日本の医科系大学では初のスポーツ外来部を設立し、93年同センター長、スポーツ医学科教授に就任。96年より東京慈恵会医科大学客員教授。
1964年JFAにおいて医事活動をスタート。70年には第6回アジア競技大会にチームドクターとして帯同し、これ以降、JFAにおいて日本代表チームのチームドクター制度が始まった。その後約10年間日本代表チームに帯同し、医学をスポーツの現場にフィードバックする体制を築いた。71年には三菱重工サッカー部で日本初のチームドクターとなり、74年にJSLチームドクター協議会を設立。77年JFAスポーツ医学委員長(~98年)となり、サッカー医・科学研究会、サッカードクターセミナーを発足させた。95年にはJリーグにドーピングコントロールを導入するなど、医学管理の重要性を日本サッカー界に浸透させた。また、96年、アフリカサッカー連盟(CAF)と共催して南ア・プレトリアでスポーツ医学セミナーを開催し、2002FIFAワールドカップ招致に貢献した。
1982~06年FIFAスポーツ医学委員会委員、83~02年AFC医事委員長(医事委員就任は79年)として、FIFAワールドカップ(90年イタリア大会から5大会連続)、アジアカップ等国際大会における医学管理とドーピングコントロールの指揮を執った。06年引退に際し、FIFA功績認定証が授与された。また、95年第1回アジア・科学とフットボール学会(東京)を皮切りに、アジア各地でスポーツ医学会議、スポーツ医学セミナーを開き、アジアのスポーツ医学の普及と向上に貢献、「アジアスポーツ医学の父」と称される。92年、02年AFC功労賞受賞。
浅見 俊雄(あさみ としお)
1933年10月3日、埼玉県生まれ
埼玉県立浦和中学校でサッカーを始め、県立浦和高校時代には1951年度国民体育大会高校の部優勝、全国高校選手権大会優勝、東京大学では1952年度年第1回全国大学選手権優勝。
1959年に1級審判員となり、1983年の引退までトップレフェリーとして、また1961年からは国際審判員として国内外で20年以上に亘り活躍。1964年東京オリンピック線審、1979年第2回FIFAワールドユース選手権、アジアカップ、アジア競技大会等主審をつとめ、1983年FIFA審判員特別功労賞を受賞。JSLでは主審74試合(1965~82年)。
1978年JFA理事に就任、91年からはJリーグ理事を兼務し、日本サッカー界全体の底上げと活性化を推進。
1983年よりJFA審判委員長として(93年からはJリーグ審判委員長兼任)、委員会機能の充実と地域との連携を図り、日本サッカー審判界のレベルアップに着手。特に、「ワールドカップで笛を吹ける審判員」の養成を目指し、若手の育成とプロ化に向けた基盤作り、インスペクター、インストラクター制度の確立と充実に重点を置く抜本的な施策を行い、後の時代につなげた。また女子審判員の育成にも尽力、資格制度を設け、世界大会への輩出を実現した。
1986~2002年AFC審判委員会委員・副委員長をつとめ、審判教育や体力トレーニングの導入により審判員制度に厳しい基準を設けるなど、アジアの審判界における規律の重視と技術向上を主導。その功績により2002年AFC功労賞受賞。またAFC規律委員会の委員・副委員長としてフェアプレーの徹底に尽力した。
鈴木 良三(すずき りょうぞう)
1939年9月20日、埼玉県生まれ
東京オリンピックからメキシコオリンピックにかけての日本サッカーの飛躍期に日本の守備を支えたディフェンダー。
埼玉県立浦和西高校でサッカーを始め、1956年度第35回全国高校選手権大会優勝。立教大学では1959年度関東大学リーグ優勝(全勝優勝)、東西学生王座決定戦初優勝、また、1962年入社の日立製作所では、1963年度天皇杯全日本選手権準優勝、全国都市対抗選手権優勝に貢献。
立教大学在学中に日本代表に選出され1961年8月対インドネシア戦で日本代表デビュー。東京オリンピックでは全試合に出場し、チームのベスト8進出に貢献、バネのきいたヘディングと外国人選手にも負けないフィジカルの強さを生かして相手のエースを厳しくマークするストッパーの仕事を黙々とこなした。1966年アジア競技大会(バンコク)では3位。1967年6月、東京・駒沢競技場で行われたブラジルの一流プロクラブ、パルメイラスとの試合では、危険極まりないFWダリオをマーク、激しい当たりで防ぎきってプロチームに対する日本代表の初勝利を支えた。1968年メキシコオリンピック日本代表に選出され、同年代表を退いた。日本代表として98試合出場。
JSL(日立)では、1965年にJSL選抜(当時のベストイレブン)に選出され、1970年までに通算67試合出場、5得点を記録。
多和 健雄(たわ たけお)
1918年10月29日、愛媛県生まれ
兵庫県立第三神戸中学校、東京高等師範学校で選手として活躍。中央大学法学部
卒業。中学、高校の教諭を経て、1954年から東京教育大学で教鞭をとり1973年より
教授。1978年筑波大学体育専門学群副学群長。
JFAでは1960年より選手強化本部普及部長、東京オリンピック後は普及指導部長、
技術委員として、年齢や環境に応じたサッカーを提案し、サッカー文化の普及や
指導者養成(コーチ制度の確立)に尽力した。
戦後いち早く、サッカーの教育的、文化的価値を見出し、学校正課体育へのサッカーの
導入を提唱し、その原案作りに関与。1958年改訂の学習指導要領改訂おいて、小学校から
高校までの体育の学習内容としてサッカー(小学校では簡易型のサッカー)が採用された。(1962年から小学校から
段階的に施行が始まる)。1960年文部省教材等調査研究会の委員に委嘱され、学年に応じた技術習得のための教材研究や指導法の体系化に努めた。また、教職を目指す学生や現場の教員を対象に指導者講習会を実施し、教育現場での適切な指導の実現を図った。サッカーの教育課程への位置づけにより、すべての児童がサッカーを経験できる環境が整備された。基礎的なサッカーの指導が学校体育の中で行われることとなったことは、日本のサッカーが急速に普及し、発展する一つの大きな契機になったといえ、その先鞭をつけた功績は大きい。
また、戦後最も早く海外のサッカー理論を取り入れ、チームでの指導で実践する一方、それを若い世代へと伝授し、
戦争で中断され低迷していた日本サッカー界を活性化させた。自ら監督として、東京教育大学を1953年度関東大学リーグ優勝に導いた。
2007年没
Christopher W. McDONALD(クリストファー W・マクドナルド)
1931年12月13日、イングランド ロンドン生まれ
1950年4月に来日。ナショナル金銭登録機株式会社勤務後、1980年より日本ロレックス
株式会社代表取締役、同社長、会長を経て2007年に退職。
1992年よりJFA顧問。1993~2008年Jリーグ裁定委員会委員。
幼少よりサッカーに親しみ、来日後は、YC&AC、TRICKクラブでプレー。主にGKとして活躍し、
TRICKクラブでは全国都市対抗選手権に東京代表として出場した。
1958年アジア競技大会(東京)、1964年東京オリンピックでは競技役員を務め、FIFA役員
らのリエゾンとして活動、スタンレー・ラウス卿(1961~1974年FIFA会長)とも親交を持ち、
FIFAとJFAのパイプ役を務めた。
1960年代後半~70年代にかけて、ミドルセックスワンダラーズ(全英アマチュア選抜クラブ)やアーセナル、マンチェスター・シティ、トッテナム・ホットスパーなどのイングランドリーグ(当時)の強豪クラブの来日をコーディネート。海外遠征が容易ではない時代に親善試合を数多く実現させ、日本代表が世界のサッカーを知る貴重な機会をつくった。
1969年ワンダラーズクラブの2度目の来日を機に、同クラブよりJFAに「ミドルセックスワンダラーズ杯」が贈呈され、1970年からプレゼンターとして高校選手権の優勝校にカップを授与。サッカーを通して道徳心やスポーツマンシップを培うというクラブの精神を伝え、サッカーによる日英交流の架け橋として活動を続けている。
1978年大英勲章第4位受章(O.B.E.)、2009年日英間の文化交流促進と我が国のサッカー界の発展に寄与した功績により、旭日小綬章を受章。
2011年没
牛木 素吉郎(うしき そきちろう)
1932年6月12日、新潟県生まれ
新潟県立新潟高校、東京大学文学部社会学科卒業。東大ア式蹴球部主務。東京新聞、
読売新聞でスポーツ記者を務め、50年以上にわたってスポーツジャーナリストとして活動。
1970年代半ばまで日本サッカー協会機関誌『サッカー』の編集に携わる一方、
『サッカーマガジン』誌(ベースボール・マガジン社)では、1966年の創刊以来40年間に
わたって時評を連載して日本のサッカー界のオピニオンリーダーとなり、Jリーグ時代に
つながる「サッカーという文化の考え方」を説いてきた。
学校と企業に依存していた日本のスポーツを「クラブ化」することのメリットを訴え、自ら
読売サッカークラブの創設(1969年)に尽力。アマチュアリズム至上主義の不合理性に
目をつけ、プロフェッショナルとアマチュアが健全な形で共存することがサッカーという
競技のあるべき姿であることを主張し続けた。
海外サッカーの情報がほとんどなかった1958年にワールドカップを新聞で紹介し、1970年メキシコ大会以来11大会
連続して現地取材。1970年大会を題材とした日本で初めてのワールドカップに関する書籍『サッカー 世界のプレー』
(講談社)をまとめてワールドカップに関する知識を広めるとともに、70年代から繰り返しワールドカップ日本開催の夢を語ってきた。
メディア人として後生に記録を残すことの重要さを意識し、1965年の1シーズン目からの「日本サッカーリーグ年鑑」の
発行を強く推進。また、現在日本のサッカーで広く使われている「試合記録用紙」の開発は、地味ながら忘れては
ならない重要な業績と言える。
新聞社退職後には、「ビバ!サッカー研究会」「日本サッカー史研究会」を主宰し、広く一般のファンの参加を求めて
サッカー知識の普及に努めている。
金子 勝彦(かねこ かつひこ)
1934年8月30日、神奈川県生まれ
中央大学を卒業後、大阪毎日放送を経て、東京12チャンネル(現テレビ東京)に入社。
1968年にスタートした「三菱ダイヤモンドサッカー」などを担当し、40年以上にわたり
サッカー中継の実況をつとめた「サッカー実況アナウンサー」の草分け。
軽快な「ドラム・マジョレット」のテーマ音楽と、「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかが
でしょうか」のフレーズで始まる「三菱ダイヤモンドサッカー」は、解説の岡野俊一郎との
絶妙のコンビで、FIFAワールドカップをはじめ欧州各国のトップリーグの模様を、戦術的
な解説を含め視聴者に分かりやすく映像で伝えた。当時、情報量の少なかった海外
サッカーを紹介する「世界への窓」ともいえる唯一のテレビ番組であった。
1974年には、日本史上初めてFIFAワールドカップが衛星生中継された西ドイツ大会の決勝戦を実況した。テレビ東京退社後も、「オフィス・ワンツー・リターン」を立ち上げ、フリーランスアナウンサーとして活躍。民間放送や衛星放送で、Jリーグやイングランド・プレミアリーグの試合を数多く実況し、今も現役アナウンサーとして活躍を続けている。
常に、膨大な資料を読み解き、研究し、試合展開や局面での的確な情報を瞬時に分かりやすく多くの人に伝える努力を続けてきた。1968年の日本代表チームのソ連・ヨーロッパ遠征への同行をはじめ、現地取材を積極的にこなし、生の姿を伝えることに心を砕き、言葉を通してサッカーの素晴らしさを伝え続けている。
2002年Jリーグ特別功労賞受賞。
奈良原 武士(ならはら たけし)
1937年7月22日、東京都生まれ
共同通信記者としてFIFAワールドカップを1970年メキシコ大会から4大会連続で取材した
日
本のサッカージャーナリストの草分けの一人。
1961年、早稲田大学を卒業後、共同通信社に入社し、運動記者となる。
1971年同社札幌オリンピック室勤務。翌年運動部に戻り、1983年より福岡支社運動部長。
1985年に編集局に異動、整理本部整理部長、編集委員室編集長を務めた。
共同通信在籍中から『サッカーマガジン』などの専門誌に海外のサッカー情報や歴史、
名選手のエピソードなどを幅広く紹介。定年退職後も共同通信、日刊スポーツなどに
連載記事を寄稿し、40年以上にわたりサッカーの素晴らしさを書き続け、鈴木武士の
ペンネームでサッカーに関する多数の著書を世に出している。
著書に、『ワールドカップ物語』(1997年)、『サッカー狂騒曲~ワールドサッカーおもしろ話』(1998年)、
訳書に、『ベッケンバウアー自伝』(1976年)、『ペレ自伝』(1977年)等がある。また、1977年発行の
『世界サッカー史』を監修した。
1978年にリニューアルされたJFA機関誌『サッカー JFA News』の第1号(1978年12月)から第95号(1992年5月)まで編集委員長を務めた。また、綿密な史料収集と歴史調査を行い、1987年には『天皇杯65年史~全日本サッカー選手権全記録』(編著)、1996年には『日本サッカー協会75年史』(編集長)を手掛けるなど、日本サッカー界のアイデンティティを未来に伝えるため、JFAの歴史を正しく伝え、そして長く後世に残すことに心血を注いだ。
2007年没
Marius Johan OOFT(ハンス・オフト)
1947年6月27日、オランダ・ロッテルダム生まれ
オランダ協会の育成部門でユース年代の指導や指導者養成にあたっていた1980年、ヨーロッパに遠征中の高校日本選抜チームを指導したことが縁となり、1982年7-8月にヤマハ発動機のコーチとして来日。短期間でチームの再建を図り、ヤマハを、日本サッカーリーグ2部優勝、1部復帰とともに天皇杯初優勝に導いた。1984-88年には、マツダを率いてJSL1部昇格、天皇杯準優勝の結果を残した。
そうした実績が評価され、1992年3月、「日本をワールドカップに出場させること」を目標に掲げ、日本代表監督に就任。「アイコンタクト」「トライアングル」「コンパクト」などの言葉を用いて、現代サッカーに必要な基礎技術を徹底、代表のみならず日本サッカー界に広く浸透させ、日本のスタイルの礎を築いた。同年8月には、第2回AFCダイナスティカップで優勝し、1930年極東選手権以来の公式国際大会タイトルを獲得。続く10月には、第10回AFCアジアカップ(広島)で優勝、日本代表チームを、悲願であった初のアジア王者へと導いた。翌1993年10月のワールドカップアジア最終予選では惜しくも初の本大会出場を逃したが、初の外国人監督として、1年半足らずで、選手の力を最大限に引き出し、代表チームを確実にレベルアップさせた。それまで日本が乗り越えられなかったアジアの壁を打破し、日本をアジアの強国に押し上げ、その地位を強固なものにした功績は計り知れない。日本代表監督として、38戦/18勝、11分、9敗。
また、代表の活躍が広く認められたことがJリーグ開幕への大きなバックアップとなり、人気増大に繋がったことも、功績の一つである。
代表監督退任後は、ジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズの監督を務めた。J1リーグ戦合計 209試合/100勝、12分、97敗。
髙田 静夫(たかだ しずお)
1947年8月5日、東京都生まれ
練馬区立大泉中学校、東京都立石神井高校、東京教育大学を経て、1970年より読売サッカークラブでプレー。東京教育大学では、MFとして68年度に関東大学リーグと大学選手権の二冠、69年度に関東大学リーグ2連覇を達成した。
選手引退後は審判員としての道を歩み、1980年に1級審判員、84年に国際審判員に登録される。1986年FIFAワールドカップメキシコ大会、スペイン対アルジェリア戦で、日本人として初めてワールドカップの主審を務めた。2年後のソウルオリンピックで主審と副審(線審)など、そして1990年のFIFAワールドカップイタリア大会にも参加し、主審を1試合、副審(線審)を3試合、第4の審判(予備審)を3試合務めた。JSL 主審92試合(1983-92年)、Jリーグ 主審 26試合、副審2試合(1993-94年)。
1994年に現役審判員を退いた後は、後進の育成に取り組み、96年からはAFC、02年からはFIFAのアセッサーとして活動。06年にはFIFAワールドカップドイツ大会の審判アセッサーを務めた。その一方で、96年にJリーグ審判委員長、98年にJFA理事、同審判委員長に就任。06年の退任まで、審判員のプロ化(PR制度)やレフェリーカレッジの設置など、強化・育成のための制度を確立した一方、審判員の評価、昇級制度、インストラクター制度を積極的に改善して、審判員の水準の底上げや地位の向上を図るとともに、審判員登録者数を拡大し、組織の安定化や情報伝達の迅速化を実現した。その結果、審判員の裾野が拡大し、トップレフェリーのレベルも向上、日本は世界大会に多くの審判員を送り出し、そのレベルが評価されるようになった。
1993年 Jリーグ最優秀審判員賞、1996年 FIFA審判特別賞、2009年 AFCスペシャルアワード(ブロンズ)
諸橋 晋六(もろはし しんろく)
1922年7月13日、東京都生まれ
東京高等師範学校附属中学校でサッカーを始め、フォワードとして活躍し、上智大学、三菱商事でもプレーを続けた。1954年、財閥解体を経て新たに創設された三菱商事でサッカー部を再建。自ら主将を務め、活動を軌道に乗せた。55年には、三菱日本重工業所属で元日本代表選手の津田幸男氏らとともに「三菱サッカーリーグ」を結成。三菱グループ内のサッカー熱を高め、三菱サッカー発展の礎を築いた。三菱という大企業グループがサッカーを取り入れたことは、サッカーの社会的価値を示す意味でも大きな影響力を与えた。
1986年より三菱商事取締役社長、92年より同会長を務め、95年には2002年FIFAワールドカップ日本招致委員会副会長に就任。官民一体の取り組みを提言し、自らも商社の人脈やネットワークを生かし、世界を歴訪して日本開催を訴えるなど、大会の招致に尽力した。
また、日本のサッカーの普及と人気の定着にも力を注いだ。三菱商事ロンドン支店赴任中の1967年、当時の篠島秀雄日本サッカー協会副会長(三菱化成工業社長)に英国のサッカー番組『Match of the Day』を紹介。「日本サッカー界のためになる」と説得し、篠島氏とともに日本国内での放送実現に奔走。番組は、三菱グループの後ろ盾を得て、68年、日本初の定期的な海外サッカー番組『三菱ダイヤモンドサッカー』と銘打ち、スタート。20年にわたって、欧州各国リーグ戦や国際親善試合を中心に1,000回近く放送された。70年からはFIFAワールドカップを放送するなど、同番組は日本の若者に世界トップレベルのサッカーを伝える役割を果たし、日本のサッカーの発展に寄与した。
1990年 藍綬褒章、2001年 勲一等瑞宝章受章、2013年 叙従三位
2013年没
小澤 通宏(おざわ みちひろ)
1932年12月25日、栃木県生まれ
1956年メルボルンオリンピック予選で日本代表デビュー、予選突破に貢献し本大会にも出場した。日本代表の主将として、また、ディフェンスの要としてチームを牽引し、約10年にわたって日本代表として活躍、95試合に出場した。
栃木県立宇都宮高校でサッカーを始め、全国高等学校蹴球選手権大会に3年連続で出場。2年時の第28回大会で準優勝し、翌年の第29回大会で優勝という成績を残す。東京教育大学では1年時からレギュラーで出場し、3年時には関東大学リーグで優勝、翌年度には全国大学蹴球選手権大会を制覇した。
1955年に東洋工業(現マツダ)に入社、56年度の全国実業団サッカー選手権大会で優勝、62年にも古河電工との同時優勝ながら2度目の制覇を果たし、同年の年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。65年の日本サッカーリーグ(JSL)発足後も東洋でキャプテンを務め、チームが得意としたパス攻撃を支えるディフェンダーの中心としてJSL第1~3回大会の連続優勝(東洋は68年度まで4連覇)と65年度天皇杯全日本サッカー選手権大会初優勝に導いた。
現役引退後は、北米マツダ副社長、本社取締役総務部長などの要職を歴任。1984年、マツダのJSL2部降格を受けてサッカー部の部長に就き、チームの再建・強化に奔走した。また、マツダを母体とした広島におけるプロサッカーチームの発足に力を注ぎ、サンフレッチェ広島の創設(92年)に貢献した。
1971年に赴任したメルボルンで、在留邦人の子ども達にサッカーを指導したことを契機に、75年に安芸府中サッカースポーツ少年団を立ち上げ、40年にわたって小学生にサッカーの指導を続けている。
野村 六彦(のむら むつひろ)
1940年2月10日、広島県生まれ
広島市立舟入高校、中央大学を経て、1963年に日立製作所に入社。1957年度全国高等学校蹴球選手権大会に出場し、優秀選手に選出される。中央大学時代には全国大学蹴球選手権大会で優勝3回、関東大学リーグ戦で2連覇、天皇杯全日本蹴球選手権大会では優勝1回という成績を収めた。
運動量のある中盤のリンクマン(ミッドフィルダー)としての能力を見出され、1960年には日本代表候補として欧州・ソ連遠征に参加。スピードを維持した状態での正確なボールコントロールと相手の動きを見抜く判断力に長け、攻撃に絡むプレーを得意とした。
日立では、1965年に日本サッカーリーグ(JSL)で14試合に出場し、15得点を挙げて、初代得点王に輝く。1970年代には同サッカー部の高橋英辰監督が掲げる「走るサッカー」を実践し、主力選手としてチームを牽引。1972年度にはJSL1部、天皇杯全日本サッカー選手権大会で初優勝を果たし、日立の二冠に大きく貢献するとともに、日本サッカー界に「走る」というサッカーの原点に目を向けさせた。同年、年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。JSL初年度の得点王に輝いてから7年を経ての同賞受賞は、長く第一線で活躍し続けた証を物語っている。
現役引退後はコーチを経て、1979年から3シーズンにわたり日立の監督を務める。1992年からはJリーグのマッチコミッショナーを、また2006年からはJリーグ規律委員長や日本サッカー協会の規律・フェアプレー委員を務めるなど、プロ化以降も20年にわたってJリーグと日本サッカーの発展に尽力した。
2013年 第46回内閣総理大臣杯 日本プロスポーツ大賞功労賞受賞