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創立記念日によせて~【コラム】田嶋幸三の「フットボールがつなぐもの」vol.1~
2016年09月09日
JFAオフィシャルサイトJFA.jpでは、田嶋幸三会長のコラム「フットボールがつなぐもの」の連載を開始します。月1回を目処に、田嶋会長が、日々思うことやJFAの取り組み、世界やアジアのサッカー界で起こっていることなど、その時々の話題を取り上げ、皆さんにお伝えしていきます。
9月10日は「フットボールデー」
皆さん、こんにちは。日本サッカー協会(JFA)会長の田嶋幸三です。
9月6日、アウェイで行われたアジア最終予選のタイ代表との第2戦、日本は完全アウェイの中、2-0で勝利しました。お互いに初戦を落としていましたので難しい試合になると思っていました。日本はベストな内容とは言えませんでしたが、最終的なところで隙は見せず、緊張感を持ってやってくれたと思っています。10月6日のイラク戦もしっかり勝点3を挙げ、グループ最大のライバルであるオーストラリアとのアウェイ戦(10月11日)を良い形で迎えたいと思っています。最終予選は簡単ではありません。一つ一つ勝点を重ねていくことで、ワールドカップの切符を手にできると信じています。その意味でも次のイラク戦は非常に重要です。是非、熱い応援をお願いします。
さて、JFAは9月10日(土)、創立95周年を迎えます。JFAは創立記念日を「フットボールデー」と定め、毎年、JFAハウスで日本サッカー殿堂の掲額式を開催するほか、この期間、全国各地でサッカーフェスティバルやサッカー教室など、キッズからシニア、女性が楽しめる各種イベント(詳しくはこちら)を開催しています。初心者も参加できる催しを多数取り揃えていますので、是非、多くの皆さんに最寄りの会場に足を運んでいただき、サッカーの魅力に触れる一日にしていただきたいと思います。
今日は、創立記念日に際し、JFAの誕生から今回の日本サッカー殿堂で掲額されたベルリンオリンピック日本代表、東京オリンピックからメキシコオリンピックまでの日本サッカー黎明期、そして、Jリーグ創設までを振り返ってみたいと思います。(文中敬称略)
サッカーの伝来とJFAの創設
日本にサッカーが伝来したのは、明治維新より前、東京築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)の指導のために1873年に来日した英国海軍教官団のA.L.ダグラス少佐と海軍将兵がレクリエーションとして、また、訓練兵の体力強化としてサッカーを教えたことが始まりと言われています。当初、そこで教わった日本人訓練兵たちは「異人さんの蹴鞠」と受け取ったそうです。
サッカーが広がりをみせたのはそれからしばらく経ってから。1878年に体操伝習所(後の東京高等師範学校)が創設され、助教を務めていた坪井玄道(※)がサッカーなどスポーツの普及、指導者の養成に尽力しました。東京や神戸の師範学校でサッカーがプレーされたことで、その後、教師となった卒業生がサッカーの指導と普及にあたるようになりました。1918年には、「日本フートボール大会」(大阪)や「東海蹴球大会」(愛知)、「関東蹴球大会」(東京)など、多くの大会が開催されます。全国高校サッカー選手権の前身です。
英国大使館にウィリアム・ヘーグ(※)という書記官がいて、当時、彼からキックやシュートを教わった選手もいました。ヘーグ書記官らの働きかけで、1919年にイングランドサッカー協会(FA)からFAシルバーカップが寄贈されることになりました。ところが、日本にサッカーを統括する組織がありませんでしたから、東京師範学校で校友会蹴球部長を務めていた内野台嶺(※)はカップの扱いに悩んだといいます。そのとき、東京師範学校の校長で、日本体育協会の会長を務めていた嘉納治五郎がサッカー協会設立を厳命し、1921年、大日本蹴球協会が創設されたのです。設立趣旨の一部を紹介します。
「吾人はこれを以って日本全国の各団体を統括する機関となし、以って蹴球発展の機運を促進し、あるいは指導員を派遣して競技の進歩を図り、あるいは各団体を連絡せしめて代表チームを選定するなど、棋道のために最善の努力をするつもりであります。すでに英国の蹴球協会の如きは、本協会の設立発展について、多大の好意と期待とを示して居ります。世界の変局と国運の伸張とに伴ひ、宇内に飛雄すべき我が国民の体育を向上せしめんが為に、世界的平和的使命を有する蹴球を普及発達せしめんが為に、大方の諸賢が、本協会設立の趣旨に賛同せられ、この目的を達成することが出来るやうに援助せられんことを希望する次第であります」
創立95年を迎えた今、この設立趣旨を読み直し、あらためて先人の気概に触れたような気がします。
ところで、JFAの設立に尽力したヘーグ書記官は1919年に帰国。その2年後に再び日本の地を踏んだのですが、1923年の関東大震災で不慮の死を遂げました。
オリンピック初出場となったベルリン大会(1936年)
JFAが国際サッカー連盟(FIFA)に加盟したのは1929年です。それから7年後の1936年、日本は、ベルリンで開催された第11回オリンピック競技大会に出場。初出場ながら初戦で優勝候補のスウェーデンを破る大金星を挙げて8強入りを果たしました。現代で言えば、アトランタオリンピックで日本がブラジルを破ったような、あるいは、ラグビーワールドカップで日本代表が南アフリカを破ったような快挙で、日本サッカー史には「ベルリンの奇跡」として刻まれています。
今年から日本サッカー殿堂に「チーム」部門が新設されたのですが、このベルリンオリンピックに出場した日本代表チームが80年の時を経て殿堂入りしました。9月10日(土)の日本サッカー殿堂掲額式で、同じく今年殿堂入りしたジーコさんと共に掲額されます。
ベルリンオリンピックでは、キャプテンだった竹内悌三選手(※)―この人は、照明デザイナーの石井幹子さんのご尊父ですが、日本選手団の明治神宮参拝のときと現地のオリンピック村入村の際に旗手を務めました。選手団は東京駅を出発し、列車で下関へ。サッカー日本代表は、寄港地ごとに大歓迎を受けたそうです。そこから船で韓国の釜山に行き、その後は鉄道でユーラシア大陸を横断します。
ベルリン大会で日本がスウェーデンに勝利した要因の一つに、「3FB制」(相手のCF(センターフォワード)をマークするために、それまでの2人のFB(フルバック)の中央にCH(センターハーフ)を後退させて、第3のFBを置く形にする守備)を短時間で身につけたことが挙げられます。ベルリンでドイツ人のチームと練習してそれに気づいた日本チームは、急きょ、この3FB制を採用することを決めたのです。このときのことを、日本代表コーチの竹腰重丸(※)は、「それを一応マスターすることができたのは、『考えるサッカー』に慣れていた賜物」と述懐しています(機関誌『Soccer』(現『JFAnews』)復刊第2号)。今の時代だったら考えられないことではありますが、とても興味深いと思いませんか?
日本で指導した歴代外国人監督の多くが「日本人プレーヤーは想像力に長け、クレバーなサッカーをする」と口々に言いますが、まさしくそれが日本サッカーのレガシーではないかと思います。
ベルリンオリンピックの3年後に第二次世界大戦が勃発。学徒出陣により、多くのサッカー選手が戦火にまみれ、命を失いました。1945年の1月には、日英の友好の証として贈られたFAシルバーカップもスポーツ関連銀器献納によって姿を消す運命に。ちなみに、現在、日本サッカーミュージアムに展示されているカップは、JFAが90周年を迎えた2011年にFAから新たに寄贈されたものです。
復活第1回全日本選手権の予選が行われたのは1946年4月。関東と関西で行われ、5月5日に決勝が行われました。
1945年にFIFAから除名されたJFAは、1950年に再加盟を果たし、1954にFIFAワールドカップ(スイス)の地区予選に出場しました。ワールドカップ予選への出場はこれが初となります。
この年の5月にはアジアサッカー連盟(AFC)が創設され、日本は10月にAFCに加盟しています。1956年にメルボルンオリンピックに出場、1958年には、東京師範学校でプレーした多和健雄(※)らの尽力で、小学校から高校までの体育の正課にサッカーが採用されることになりました。また、この年、JFAの常務理事を務めていた市田左右一が日本初のFIFA理事に就任しています。
なお、ベルリンオリンピック日本代表について克明に記した書籍『ベルリンの奇跡』(著者:竹之内響介、監修:賀川浩)が東京新聞から発行されていますので、関心のある方は是非、読んでみてください。
日本サッカー黎明期
東京オリンピックを4年後に控えた1960年、JFAは抜本的な強化に乗り出します。当時の日本サッカーはアジアでもなかなか勝てない弱小国。オリンピックのホスト国としてみっともない試合はできません。そこで、野津謙JFA会長(※)の英断で、JFAは約50日間の欧州遠征とドイツサッカー連盟に指導者派遣の要請をしました。コーチは、「日本サッカーの父」と言われるデッドマール・クラマー(※)。後にバイエルン・ミュンヘンの監督としてチームを欧州王者に導いた知将です。
1960年の夏、デュイスブルクのスポーツシューレで初めて日本代表の指導に当たったとき、クラマーコーチはドイツ語しか話さなかったそうですが、その4カ月後に来日したときは英語で指導したと言います。また、「大和魂」「武士道」のほか、「残心」という言葉まで知っていたことに驚かされたそうです。当時、日本代表として欧州遠征に参加した川淵三郎キャプテン(JFA最高顧問)は、著書『「J」の履歴書』で「いまだになぜ、あれほどの人が日本人を教えにきたのかよくわからない」と記していますが、それだけ素晴らしい指導者だったということです。当時の日本代表は、「世界基準」とは程遠いレベルで、川淵キャプテンは、「クラマーコーチは、キックやヘディングなど基本を一から教え、また、スポーツマンとしての姿勢を伝授しました。クラマーコーチの薫陶を受けた日本代表はめきめきと上達し、東京オリンピックでは優勝候補のアルゼンチンを相手に逆転勝利し、8強入りを果たしました。
クラマーコーチは大会後、日本サッカー界に対して、①国際試合の経験を多く積むこと、②高校から日本代表まで各2人のコーチを置くこと、③コーチ制度を導入すること、④リーグ戦を開催すること、⑤芝生のグラウンドを数多くつくること、という5つの提言をしました。
1965年に創設された「日本サッカーリーグ(JSL)」によって日本のトップのレベルは大幅に上がりました。それがメキシコオリンピックの銅メダルに続くわけです。これによって日本にサッカーブームが巻き起こり、各地にサッカースクールやサッカー少年団を誕生させました。
現在の指導者養成制度やリーグ戦化、グラウンドの芝生化など、クラマーさんの提言を受けて、サッカー環境を整備してきました。もしもクラマーさんがいなかったら、日本サッカーの進歩はもう少し遅れていたのかもしれません。
JSLからJリーグへ
JSLが開幕して3年目には、初めて日系ブラジル人選手・ネルソン吉村選手(※)がヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)に移籍しました。同じ年に釜本邦茂選手(※)が加入。後にカルロス・エステベス選手、ジョージ小林選手などが加わり、ヤンマーは黄金時代を迎えます。しばらくすると、藤田不動産(現湘南ベルマーレ)がプロ経験のあるセルジオ越後選手を獲得。読売クラブ(現東京ヴェルディ)には、ジョージ与那城選手、ルイ・ラモス(ラモス瑠偉)選手が加わり、サッカーファンは個人技を得意とするブラジル流のサッカーに魅了されていきます。
一方で日本人選手もブラジルにサッカー留学するようになっていきました。古河電工時代の私の先輩である奥寺康彦さん(※)もブラジルの名門・パルメイラスに。この留学が、ドイツで日本人初のプロ選手として活躍することにつながるわけです。
とはいえ、JSLの人気は長く続きませんでした。また、日本代表もアジアでなかなか勝てず、弱体化の道を辿ることになります。
そんな中で、国際オリンピック委員会が1974年、『オリンピック憲章』の「第26条 参加資格」から「アマチュア」の文字を削除することを決定。1984年のロサンゼルスオリンピックで正式にプロ選手の参加を認めました。これを機に、日本のサッカー界にプロ化の機運が高まっていったのです。
JSLは1986年、奥寺選手の帰国と同時にプロ選手の登録「スペシャルライセンス制度」を導入し、彼が第1号として登録。その後、日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)の木村和司選手ら、多くの選手がプロとして登録し、徐々にJSLのプロ化が意識されていきました。
1988年、JSLはリーグを盛り上げ、日本サッカーのレベルアップを図ろうと、「活性化委員会」を設置して議論を開始。その中から「プロリーグ創設」という結論がもたらされたのです。プロ化にあたっては、単にクラブをプロ化するのではなく、ヨーロッパのサッカー先進国にあるような、特定の地域をホームタウンとし、地域の自治体や住民、企業に支えられながら、子どもから高齢者までがスポーツを楽しめる環境を広げ、その中から優れた選手を輩出して日本のサッカーのレベルを上げていこうという構想を打ち出しました。
Jリーグ開幕
1993年、開幕。Jリーグは爆発的な人気となりました。JSL時代は閑古鳥が鳴いていたスタジアムは、どの試合も満員御礼に。ブラジル代表として3度のFIFAワールドカップ出場を果たしたジーコ選手、元イングランド代表だったゲーリー・リネカー選手、元ドイツ代表のリトバルスキー選手ら有名選手がJリーグ入りしたこともJリーグブームの起爆剤になりました。
中でもジーコさんはJリーグ創世記を支えた功労者。1991年に鹿島アントラーズに加入し、93年に開幕するJリーグの名を世界に知らしめると共に、日本人選手に高い技術とプロフェッショナル精神を植え付けてくれました。日本サッカーリーグ(JSL)の2部チームだった住友金属サッカー部がJリーグ初年度のサントリーシリーズで優勝を飾ったのは、ジーコさんの存在なくしてあり得なかったことだと思います。そして、2002年には日本代表監督として、2004年のAFCアジアカップ優勝、2006年のFIFAワールドカップドイツ大会出場を果たしました。日本代表監督として指揮した国際Aマッチ通算71試合38勝という記録は歴代最多です。
今年、日本サッカー殿堂に掲額されることが決まりましたが、ジーコファンはもちろん、鹿嶋市の皆さんも喜んでくださっていると思います。
Jリーグが誕生してからの四半世紀、日本サッカーは世界にも稀に見る進歩を遂げました。Jリーグの誕生や2002年のFIFAワールドカップ開催、最近では、2011年のFIFA女子ワールドカップ優勝など華々しい出来事が挙げられますが、多くの先人たちが築いてきた礎があったからこそ、「今」があると思っています。
ドーピング問題に揺れた今回のオリンピックですが、日本はドーピングも八百長もない、世界に誇るべき国です。FIFAフェアプレー賞の受賞も枚挙にいとまがありません。その日本がスポーツの尊厳を守り、訴えていくことで国内外のスポーツの発展に大きく貢献するのではないかと思っています。
東京オリンピック・パラリンピックは、本当の意味で「スポーツ文化」を根付かせる絶好のチャンスですので、トップとグラスルーツ、障がい者サッカーを三つ巴に、より一層の力を入れて取り組み、多くの人々にスポーツの素晴らしさ、社会的価値を伝えていきたいと思っています。
※は日本サッカー殿堂掲額者