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リスペクトを伝える距離感 ~いつも心にリスペクト Vol.78~

2019年11月19日

リスペクトを伝える距離感 ~いつも心にリスペクト Vol.78~

ある土曜日の午前中、河川敷にある公共のグラウンドで、私が監督をしている女子チームの練習がありました。

こうした公共の施設はたいていは2時間単位の貸し出しです。いつもどおり、使用時間の30分前に集合し、準備をしていると、前の時間帯は誰も借り手がなく、空いている状態であることが分かりました。グラウンドでは若い男性が一人でボールを蹴っていました。

やがて私たちの使用時間になり、グラウンドに入っていくと、その男性はボールを片手に帰り支度をしています。

「この人数での練習で、半面しか使いませんから、使っていてもかまいませんよ」

帰ろうとする彼に、私は声をかけました。しかし彼は、「ありがとうございます。でももう終わりましたから」と、笑顔を見せ、そのまま歩いていきました。

しばらくして練習が始まり、ふと目を上げると、彼はボールをハンドル前のバスケットに積み、自転車を押して河川敷から土手に上がっていくところでした。

その瞬間、こちらを振り向くと、彼は軽く頭を下げました。それにつられるように、私も軽く頭を下げました。そして、なぜか、とても幸せな気持ちになりました。

こんなに私的で些細な出来事をわざわざ誌面で紹介する必要があるのか、少し迷いましたが、考えているうちにずいぶん前のもう一つの出来事を思い出しました。

ロンドンのヒースロー空港で、チェックインをしようと、大きなスーツケースを引っぱって広いロビーを歩いていたときのことです。ふと、カートに大きな荷物をいくつも積んで向こうから歩いてくる紳士が目に止まりました。

小柄な体、真っ白な長髪。間違いなく、世界的指揮者の小澤征爾さんでした。音楽に詳しいとは言えない私ですが、小澤さんがいかに世界で高い評価を受けているかは知っていました。そして何より、ときおりテレビで小澤さんが話される言葉を聞き、非常に立派な人格者であると感じていました。

おそらく、互いの距離は20メートル以上あったでしょう。しかし目が合った瞬間、私は反射的に頭を下げておじぎをしていました。それは私にとって、最大限のリスペクトの表現だったと思います。

有名人を見ると、近づいていって握手を求め、「がんばってください」と言う人がたくさんいます。そうしたリスペクトの表し方もあるかもしれませんが、たとえば小澤さんのコンサートを劇場で聴いたことのある人が「あの演奏には感動しました」と伝えるならともかく、テレビやC‌Dでしか聴いたことのない私が、ただ有名人だからと近づいていくのはためらわれたのです。

何より私を感動させたのは、小澤さんの反応でした。遠くでおじぎする私を見て、小澤さんは少し笑顔を見せ、軽く頭を下げたのです。そこには、人間としての温かさや謙虚さなど、小澤さんの人間性が鮮やかに表現されていました。

20メートルの距離から近づくことなく、私は航空会社のカウンターに向かいました。相手の「プライバシー」に土足で踏み込むような事態にならずにリスペクトの思いを伝えられた――。不器用な私にしては珍しく的確に行動できたことに、深い満足を感じました。

リスペクトの気持ちをもっていても、それを的確に相手に伝えられるかどうかは、そう単純なことではないような気がします。

握手をしながら、ストレートにその気持ちを伝えるのが適切なときもあります。その一方で、あまり踏み込み過ぎないよう注意しなければならない場合もあるかもしれません。

こういうケースではこうと、「マニュアル」をつくることは不可能です。それぞれの状況、それぞれの関係性の中で、その都度適切な表現方法や「距離感」が試行錯誤され、次第に磨かれていくもののような気がします。

あの土曜日、河川敷で遠くから頭を下げた青年は、若さに似合わず「熟練の距離感」を身に付けていました。それが私を幸せな気持ちにしたのは間違いありません。

寄稿:大住良之(サッカージャーナリスト)

※このコラムは、公益財団法人日本サッカー協会機関誌『JFAnews』2019年10月号より転載しています。

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