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【ワールドカップを戦った男たち#第1回】森島寛晃 前編
2018年06月01日
間もなく「2018FIFAワールドカップ ロシア」が幕を開けます。4年に一度開催されるサッカーの祭典は、これまでに多くのドラマを生み出し、世界中の人々を熱狂させてきました。
実際にその舞台に立った選手は、どのような想いでプレーしていたのでしょうか。そしてそこで感じたものとは?日本が初めて出場した1998年のフランス大会と、2002年の日韓大会のピッチに立った森島寛晃さんに、ワールドカップの魅力について話を訊きました。
1998年6月14日、アルゼンチン代表戦を前にした国歌斉唱の時、森島さんは涙が出そうになるのを必死にこらえていました。
「アルゼンチン戦はベンチだったんですが、あの舞台で国歌を歌った時、ジーンときたのを思い出します。僕らは初めてのワールドカップで、相手があのアルゼンチン。僕らはどちらかと言うとワールドカップは出るというより、観るものとして育ってきた世代で、ある意味で夢の舞台でした。そこに自分がいるという嬉しさと高揚感で、涙が出そうになりました。一方で、未知の部分も当然ありました。あの時は、そんな心境でワールドカップに臨んでいましたね」
長く閉ざされていた世界への扉を、日本がこじ開けたのは1997年11月16日のことです。岡野雅行選手のゴールでイラン代表を下し、ワールドカップ出場権を手にしたあの試合は、『ジョホールバルの歓喜』として、日本サッカー史に深く刻まれる出来事になりました。
ワールドカップへの想いを結実させ、歓喜に沸いたのも束の間、森島さんは「自分がフランスに行けるかどうかわからない」という危機感を抱くようになりました。イラン戦もベンチ外でスタンドから試合を見つめていた森島さんは、いわばメンバー選考の当落線上にあり、フランス行きの切符を確実にしているわけではありませんでした。
「メンバー発表の日は、ドキドキして待っていたのを覚えています。だから、今の時期の代表選手の心境はよく分かりますね」
結果的に森島さんは、22人のメンバー入りをつかみ取ります。一方で大会直前まで合宿に参加していた、三浦知良選手、北澤豪選手、市川大祐選手の3人が、メンバーから外れました。
「3人が外れたと聞いたとき、もう3人ともその場にはいなかったんですよね。話す間もなくチームを離れてしまったので、『気持ちは置いていく』という伝言を聞くだけでした。特に、僕はキーちゃん(北澤)とポジションがかぶっていたので、思うところはありました。あの時は僕がまだ若手で、キーちゃんがベテランの立場だった。若手がチャンスを与えてもらったわけだから、選ばれた喜びはもちろんありましたけど、その分、自分がしっかりやらなければいけないという想いも強くありました」
そして迎えたアルゼンチン戦。日本は強豪国相手に健闘したものの、バティストゥータ選手にゴールを奪われ、0-1と敗戦。記念すべき初陣を勝利で飾ることはできませんでした。
森島さんにも、結局出番は訪れることなく、ベンチに座ったままタイムアップの笛を聞きました。しかし、森島さんには敗戦のショックや、出られなかった悔しさよりも、前向きな気持ちが湧いてきたと言います。
「僕には出番はありませんでしたが、一進一退の戦いで、十分にやれるなという気持ちで見ていました。だから、ピッチに立ちたいという気持ちをより強くした試合でしたね」
そして第2戦のクロアチア代表戦で、ついに森島さんはワールドカップデビューを果たします。この試合でもベンチスタートでしたが、0-0で迎えた終盤に岡田武史監督から声がかかります。ところが、準備をしている段階で先制点を奪われてしまいました。
「監督に呼ばれた時は、『よし、1点取ってやろう』という想いでいたんですけど、出番を待っている間に1点入れられて、1点取らないと負けてしまうというプレッシャーがのしかかってきました」
そうした状況もあり、森島さんはピッチに立つ瞬間まで、かなり緊張していたといいます。
「緊張しないという選手もいますけど、僕はしちゃうタイプ(笑)。歩くだけで、ガチガチでしたから。ピッチに入れば平気なんですけどね。どんな選手が来ても怖さも感じないですし、あの時も絶対にやれるという気持ちでプレーしました」
しかし、名良橋晃選手に代わって79分からピッチに立ったものの、森島さんは流れを変える役割をまっとうできないまま、0-1の敗戦を味わうことになりました。
「あの試合での後悔は、1本もシュートを打てなかったこと。チャンスに絡むというイメージを持っていたのに、ただ走っただけで、何もできなかった。流れを変える仕事ができずに、それが本当に悔しかったですね」
結局、3戦目のジャマイカ代表戦にも出場できず、森島さんのワールドカップはわずか10分あまりの時間で、幕を閉じました。
初めてのワールドカップを、森島さんは次のように振り返ります。
「短い時間でしたし、何もできなかったけど、この経験はその後のサッカー人生につながったと思います。一番は、積極的にやることの大切さを学んだこと。世界の選手たちのプレーを目の当たりにしてそう思いましたね。選手としての成長を促すきっかけになった大会でしたし、もう一度この舞台に絶対に帰ってくる。終わった時はそう強く、心に誓いました」
出たことに満足するのではなく、何もできずに終えた悔しさが、自国開催となる4年後に向かう大きな原動力となりました。
フランス大会を終えると、すぐに日本代表は2002年に向けて、リスタートを切りました。フィリップ・トルシエ監督の初陣となったエジプト代表戦のメンバーに選ばれた森島さんは、途中出場のチャンスを得ます。ところが、わずか数分で負傷交代のアクシデントに見舞われてしまいます。
「地元の長居での試合だったんで、気合も入っていたし、トルシエにアピールしたい気持ちもありました。なのに、ピッチに出て3分くらいで捻挫して、担架で運ばれてしまいました。第一印象がそんな感じだったので、そこから1年半くらいは代表に呼ばれなかったですね」
再びあの舞台に戻りたい―。その想いとは裏腹に、森島さんの二度目のワールドカップ出場の夢は、大きく遠ざかっていきました。それでも所属するセレッソ大阪で調子を上げていくと、2000年にはJ1で優勝争いを繰り広げました。その活躍が認められ、同年に代表復帰を果たすと、6月にモロッコで行われたハッサン2世杯でフランス代表からゴールを奪う活躍を披露。10月のアジアカップでは優勝に貢献し、そのまま代表に定着していきました。
「いきなり躓いたなかで何とか巻き返して、徐々に認められていった感じですね」
とはいえ森島さんは、日本代表の立場を確立できたとは思っていなかったといいます。
「当時、僕と同じポジションにはヒデ(中田英寿選手)がいて、絶対的な立場を掴んでいましたが、アジアカップではヒデがいなかったので、空いたポジションで上手く試合に出させてもらっただけ。なので、自分の中ではチャンスを与えられたけど、定着したとは思っていませんでした」
それでもトルシエ監督は森島さんに対して、変わらぬ信頼を置いていました。2002年の日韓大会のメンバーリストに、森島さんの名前は再び記されました。何もできなかった4年前の悔しさを晴らすチャンスを、森島さんは自らの手でつかみ取ったのでした。
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