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「サッカーが好きだから~I just love football~」全国サッカーファミリープロファイル

サッカーが好きだから~I just love football~

「サッカーが好きだから~I just love football~」全国サッカーファミリープロファイル いくつになっても、どんなかたちでもいいからサッカーに関わっていたい。 なぜなら、”サッカーが好きだから”。 そんな、サッカーをこよなく愛す、全国サッカーファミリーの方々をご紹介します。

No.001 松田康佑

サッカーを始めたときは、日本代表になってワールドカップに出場することを思い描いていた。ところが、けがをしてしまい、満足いくサッカーができなくなってしまった。
それでも“サッカーが好きだから”やめることができず、ビーチサッカーに転向した。
家族の笑顔のために努力を続け、今ではビーチサッカーの日本代表になり、ワールドカップの舞台に立っている。

レーヴェ横浜所属の松田康佑さんをご紹介します。

インタビュー

Q.これまでのサッカー歴
一番初めにサッカーをしたのは、3歳の時だったと思います。夏休み限定のスポーツスクールに姉が行っていて、それに一緒に遊びに行って、サッカーを経験しました。
その後小学校のクラブに1年生から入って、5年生で三菱養和SCというクラブチームに移籍をしました。
中学生時代はFC渋谷というクラブチームでプレーして、今所属しているレーヴェ横浜で一緒にプレーしている選手たちと出会いました。
高校は長野県の私立上田西高校、大学は桐蔭横浜大学でサッカー部に所属していました。
大学卒業後はYSCC横浜に入団し、9年間在籍した後、2017年からビーチサッカーのレーヴェ横浜に所属しています。

Q.サッカー始めたときの気持ち
あまり覚えてないのですが、幼少期の写真を見ても、友達とおもちゃで遊んでいる写真よりも、ボールを蹴っている写真がいっぱいあったので、多分楽しかったのだろうなって思います。

Q.サッカーをやめようと思ったこと
大学生の時に足首の靭帯を切った時ぐらいですね。
大学4年生の頃に怪我をしたので、サッカーの進路を見つけるのが難しい時期でしたし、思い描いていたような進路には行けないのだろうなと感じていました。
とはいえ、サッカーをやめることできるか考えたときに、やっぱり好きだったのでやめられなかったですね。

Q.その時思い描いていた進路
昔からJリーグに憧れはありましたし、大学生の時は卒業後J2のチームに絶対に行くと思っていました。
ただ、けがをして練習参加もセレクションも受けることができなくなってしまって、実質チャンスがなくなってしまったので、絶望的でした。
サッカーを始めた時は日本代表になってワールドカップに出ることを思い描いていましたが、大学生の時にオファーがあった訳でもないですし、現実的に自分で道を切り開くしかプロになる道はなかったです。
子供の頃に思い描いていたところに行くのは簡単じゃないなという思いはありましたが、少しでも上のカテゴリーを目指していましたね。

Q.サッカーを辞めてビーチサッカーを始めたきっかけ
中学校の時のチームメイト(FC渋谷)がレーヴェ横浜に2人在籍していて、YSCC横浜時代の後輩も僕より先に引退してレーヴェ横浜でプレーしていたので、 サッカーをやっている時から引退したら一緒にやろうと声をかけてもらっていました。
その当時は全然本気にしていなかったですし、自分もまさかビーチサッカーをやるとは思っていなかったです。
ただ、サッカーを引退していきなりサッカーから離れるというのも寂しい思いがあったので、ちょっとやってみようかなぐらいの軽い気持ちで始めたのがきっかけですね。

Q.サッカーを引退した時に寂しいと思った理由
子供の頃からサッカー中心の生活で、サッカー第一で考えていて、 学校の選び方もそうですし、友達と遊ぶよりも、「とにかくサッカー」という人生でした。それが自分の中でいきなり無くなってしまうのを、引退を決めてリアルに想像をした時に、寂しいだけではなく、少し怖いという思いもありました。

Q.ビーチを始めた時の印象
サッカーを引退する前のオフシーズンにレーヴェ横浜の練習に参加したことがあったのですが、プレーしてみるとすごく難しくて、遊びというにはあまりにもきついし、純粋に楽しいかと言われれば、あまり楽しさもわからないような状況でした。 思い描いていたプレーも全然できないですし、最初は正直、つまらないスポーツだなと思ったのは覚えていますね。

Q.初めにつまらないと感じたビーチを続けた理由
いざサッカーから離れて、このスポーツを真剣にやろうって気持ちでやってみると逆にすごく楽しかったです。みんなが当たり前にできていることができないですし、素人みたいなプレーでしたけど、たまに上手くいったとき、すごく楽しかったです。
サッカーと違ってダイナミックなプレーが多かったり、あっという間に夢中になるような感じでしたね。

Q.やっていて楽しいプレー
僕、オーバヘッドが上手いわけではないんですが、サッカーではなかなか頻繁に出てくるプレーではないし、ボールがうまく転がらないのでリフティングでボールを回したり、 その辺は遊びの延長にあるといいますか、本当に楽しくできるなというのは感じますね。

Q.ビーチ日本代表に選ばれた経緯
日本代表に選ばれたのは2018年の明石カップという大会に参加して、 その大会中にラモスさんとコーチが選手を集めて紅白戦をやるというのがあって、 声をかけてもらって、全国の強豪チームの上手い選手たちと試合をやりました。
その次の国際親善試合で呼んでいただいたというのがきっかけです。

Q.初めて呼ばれた時の気持ち、感想
率直な感想は嬉しいよりも驚きでした。驚いたままホテルに集合して、自分の名前が入ったユニフォームを部屋で見たときに、すごいなって他人事のように驚いたのが初めの感想です。

Q.ユニフォームを着た時の感想、家族の反応
袖を通した時は興奮しましたね。日本代表のユニフォームはビーチもSAMURAIBLUEも同じですし、自分の名前が入った日本代表のユニフォームを着てプレーするというのは、 子供の時から夢見ていましたけど夢で終わってしまっていたので、すごく興奮しましたね。

Q.サッカーをやっていた事によるビーチサッカーへの影響
サッカーで培ったものの積み重ねがあるから、ビーチサッカーでもプレーできているので、 サッカーの経験が活きているのを感じているし、ビーチサッカーに向いていたのかなと少し思いましたね。
サッカーでは日本代表になれなかったし、プロになるのも苦労しましたが、ビーチサッカーに関しては、本当に運が良くトントン拍子で進んでいって、代表に選んでいただいて、とても良い経験をさせてもらいました。
全く想像してなかった展開でいつも驚きの連続なのですが、これも全部サッカーの積み重ねがあったからこそ、今もビーチサッカーができているのだなと思います。

Q.普段は何を
サッカー以外は仕事をしています。
酒類メーカーに勤めているのですが、午前中はオフィスで事務作業をして、夕方5時6時くらいに飲食店が開く時間になると、バーや居酒屋に飛び込み営業のような形で直接お店を何軒も回って終電ぐらいで帰るという生活です。

Q.その仕事を始めたきっかけ
元々YSCC横浜でチームメイトだった選手がいて、その兄が会社の社長なんですが、 僕の引退を弟から聞いたみたいで、社長から直接、一緒に仕事しないかと声をかけていただいて、色々お話しをさせていただき、この人とだったら仕事したいなとすごく感じて、一緒に仕事をさせてもらうことになりました。
ただ、最初はなかなか上手くいきませんでした。
お酒を飲んできた人生ではなかったので、バーもほとんど行ったことがなかったし、喋るのもそんなに得意じゃないので、営業の仕事は最初すごく苦労しましたね。
・特に苦労されたというところは?
お酒を飲まなければいけないという状況が必然的にあったり、その中で仕事の話をしなければいけなかったり。あとは門前払いではないですけど、飛び込みの営業なので、許可とってくれとか、嫌がられることも多々あったりはしましたね。

Q.そこを乗り越えられた理由
少ない人数でやっている会社で一人一人、自分が会社のためにやらなければいけないと いう思いも強く持っていますし、門前払いだったり、嫌がられることがあっても、向上心を持って毎日やっていました。

Q.サッカーと仕事の両立
難しいですね。やはりチームの練習も夜やることがほとんどなので、みんな仕事が終わってから集まって練習しているような状況です。僕の場合は、練習の時間帯が一番営業で回りたい時間でもあるので、そこは難しいですね。

Q.練習に参加できない時どのようなことをしているか
家の近くの公園を朝や午前中に走ったり、仕事が終わって家で体幹や筋トレをして、コンディションをなるべく落とさないようにして砂のピッチでできる時はなるべく追い込んで体を作るようなイメージでやっています。

Q.大変なことをやる活力
日本代表に選んでいただいてから、よりビーチサッカーへの想いも強くなりましたし、今年ビーチサッカーのワールドカップもあるのでチームの目標に対して自分の力が少しでも助けになるようにと思っているので、それが活力になっています。
仕事もビーチサッカーも中途半端にやったら面白くないと思いますし、全力でやってこそ楽しめると思うので、どちらも全力で取り組んでいます。

Q.日本代表に選ばれている心境
今回のワールドカップ(※FIFAビーチサッカーワールドカップパラグアイ2019)は、自分の人生の中で最初で最後になるかもしれないですし、そういうつもりでやらないといけないという思いもあります。 僕はサッカーをやっていて、一度引退というものを経験しているので、引退する寂しさも感じたことがあるので、悔いが残らないように、できる間は一生懸命やって楽しいビーチサッカー人生にしたいなと思っています。

Q.サッカーを引退する時に感じたこと
僕の場合は自分で決断したというよりも、わかりやすく言うとクビでした。
長いこと所属していたクラブで、試合にもコンスタントに出させていただいていて、 正直引退が近いのはわかっていましたが、そのシーズンで引退することになるというのはそんなにイメージはしていませんでした。
どういう形で引退するのかと想像していたこともあったのですが、いざそういう状況になったときは悲しいというよりは、どこかほっとしたというか、もうこれで終わりなんだっていう気持ちになったのを覚えています。

Q.そういう気持ちになった後にビーチサッカーを続けている理由
プロサッカー選手の時はギリギリの生活をしていく状況だったので、引退が決まってほっとしたっていうのは、やっぱりギリギリのところで頑張っていたのだろうなというのは感じました。 サッカーに関してはプロとしてやっていましたが、ビーチサッカーはプロリーグもないので始めたきっかけが、ちょっとやってみようかなという感じで始めたのもあります。

Q.今までサッカーやってて一番嬉しかったこと
ビーチサッカーのワールドカップアジア予選でワールドカップ出場が決まった事が一番嬉しかったです。
サッカーの方が全然経験年数が長かったのですが、国際大会も経験したことが無かったので大きな大会でギリギリのところで戦ってチームの目標を達成できたというのは結構しびれましたね。

Q.その時の周りの反応
まずビーチサッカー日本代表に入ったことも、すごく驚いていましたし、その中でワールドカップのアジア予選に選ばれて優勝できて、本当に周りの人たちみんなが喜んでくれました。

Q.松田選手の周りの人はサッカーをやることを支持してくれているか
そうですね。会社の社長も一緒に働いてる同僚も、代表に選ばれた時はすごく喜んでくれましたし、大会がある場合は海外に2週間程行くので、その間は仕事ができなくなってしまうのですが、快く送り出してくれますし、家族も本当に心から喜んでくれて、応援してくれています。

Q.サッカーを引退した時、ビーチサッカーを始めた時の周りの反応
家族はすごく寂しがっているというか悲しんでいましたね。
ビーチサッカーをやると伝えた時は、自分でもびっくりするぐらい喜んでくれて、それが自分にとってもすごく嬉しかったのを覚えています。

Q.サッカーやる上で周りの存在の影響
僕がサッカーやっていることで、友人だったり家族が喜んでくれるので、自分が大切にしている人が喜んでくれるというのは、私もすごく嬉しいのでそれは自分の力になっています。
・今後どうサッカーに関わっていこうと考えていますか
あまりイメージした事はないのですが、今はとにかくワールドカップで目標を達成する事しか考えられないです。まずはそこをしっかりやり切ってみてみないとわからないですね。

Q.サッカーワールドカップに向けての目標
もちろん優勝が目標です。僕はまだビーチサッカー歴が短いので、日本が世界でどれくらいのポジションなのかというのも、代表経験が長い人よりは全然知らないのですが不可能なことではないと思いますし、必ず達成しなければと思っています。

Q.松田選手から見たビーチサッカーの魅力
サッカーを経験していた人だけではなく、サッカーをやったことがないという人も、うちのチームのビーチサッカースクールに来ることがあるのですが、みんな本当に楽しんでやっています。 僕もビーチサッカーを同級生がやっていなかったら存在も知らなかったかもしれないですが、実際やってみると、裸足でボールを蹴ることが気持ちよかったり、少し運動ができる人だったら、すぐにオーバヘッドできるようになったり、やってて気持ちいいスポーツだなと思います。

Q.ビーチサッカーというスポーツどういう存在にしていきたいか
プロスポーツになったらいいなと思います。 全国大会を見に来たことがある人ならわかると思うのですが、DJがいて音楽が流れていたりとか、観客が水着だったりとか、一見良く思えないように見えるかもしれないですけど、すごくエンターテイメント性が高くて、見てて本当に盛り上がるスポーツだなと思います。 これがどんどんもっと広まってプロスポーツになったら、人気も出てくるのではないかなと思います。

取材日:2019年10月2日

No.002 小室正孝

しばらくサッカーから離れていたが、熱狂のJリーグ開幕、ドーハの悲劇を目の当たりにし、サッカーをしたい気持ちがふつふつと湧き上がり、またプレーを始めた。
61歳になった今でも、“サッカーが好きだから”グラウンドを走り回る。
若い頃は地域の代表にすら選ばれるような選手ではなかったが、シニアサッカーの舞台では元日本代表選手たちとも対等の立場で戦える。サッカーをするのに年齢は関係ない。将来の目標は70歳以上のカテゴリで東京代表に選ばれること。

トキオ・ロホFC所属の小室正孝さんをご紹介します。

インタビュー

Q.サッカーを始めたきっかけ
私の年代ですとメキシコオリンピックで銅メダルを取った釜本邦茂さんや杉山隆一さんがいた頃のチームに憧れがありました。
ただ、私はまわりの環境的に実際に自分でプレーをするのは難しかったので、クラブ活動で本格的にサッカーをするというのは高校からでした。

Q.憧れの選手
当時の漫画のモデルにもなった、浦和南高校出身で古河電工に所属していた永井良和さんです。
快速ドリブルが有名で、1人でゴールを決めきってしまうというところが格好良かったですね。
あとは釜本邦茂さんのような、絶対的なFWの選手に憧れはありました。
自分もサッカーをやるなら前線でゴールに絡めるような選手になりたいなと思っていました。

Q.今のポジション
今はディフェンスです。
高校時代はFWで、ドリブルしてセンタリングというプレーや、切り込んでシュートを打つのが得意でした。その後、色々なポジションを経験して、自分がオーバー60のカテゴリーで、元日本代表選手がいるような東京のトップのレベルで戦いたいと思ったときに、自分のストロングポイントである運動量、スピード、ドリブルを活かすことができるのはサイドバックかなと思って、右のサイドバックをやらせてもらっています。

Q.今のチームに入ったきっかけ
オーバー60のチームを選ぶ時に、オーバー50の時に所属していたチームの、その上の先輩たちのチームに入るという選択肢もあったのですが、チャレンジしたいという思いがあって、自分のプレーが活かせて、楽しいサッカーができるところという観点で、今のトキオ・ロホFCというチームに入ることになりました。

Q.シニアサッカーを始める前のサッカーとの関わり方
今考えると、高校を卒業した時点で私のサッカーへの愛が小さかったというのと、大学でサッカーをやるというのは、少しハードルが高かった。
探せばもしかしたら同好会が大学にもあったかもしれなかったのですが、アルバイト等で両立は難しいと思って、そこでサッカーから離れてしまいました。
大学を卒業してからも、当時はテニスとかスキーの全盛期で、テニスとかスキーとかウィンドサーフィンみたいな流行りのスポーツにハマっていました。
30歳ぐらいになると、更にサッカーとの距離が離れていたのですが、1993年の熱狂のJリーグ開幕とドーハの悲劇を目の当たりにしてサッカーをやりたいという気持ちが頂点に達しました。
1993年は当時35歳だったのですが、その時に転職をしたタイミングで、区のサッカー部に誘われて18年ぶりにサッカーと再会しました。
Jリーグや当時の日本代表の戦いに触発されたので、すごく感謝しています。
観客がすごく少なかった頃の日本サッカーリーグ (JSL)の試合を知っていたので、当時スタジアムが超満員になったのを見て、子供から大人までサッカーを見たいという人がこれだけいるのかと思いました。
高校を卒業してから、ワールドカップも見ていなかったぐらいサッカーと距離があって、自分でも、もったいなかったと思うのですが、サッカーを再開した1994年アメリカワールドカップから、またワールドカップを見だしました。
1998年のワールドカップはフランスにまで見に行ってしまいました。

Q.現在のサッカーとの関わり方
今はオーバー50から加入したYKTシニアというチームと、オーバー60で加入したトキオ・ロホFCの2つのチームで活動しています。
公式戦に関してはオーバー60のカテゴリーの東京都1部リーグで活動しています。2つのチームで練習試合も併せて毎週のように試合があります。その他に個人で「水曜練習会」に参加しています。
オーバー40からシニアサッカーとされていて、オーバー60までは全国大会で日本一を決められるような仕組みになっています。オーバー40のチームに50歳60歳の人が登録して活動することは可能ですが、次々と若い人が新しく入ってくるので、なかなかトップで戦うのは難しいですね。
ただ、50歳になったらオーバー50のカテゴリーで、60歳になったらオーバー60のカテゴリーで最若手としてやれる。これがシニアサッカーの良さで、60歳になったら1番俺が若手で暴れまわってやるぞというような、楽しみがあります。
カテゴリは分かれていますがピッチの広さは変わらないです。試合時間は大会によって20分から30分ハーフですが、私は体力に自信があるので45分ハーフでやらせろと大きな声で言いたいぐらいです。
試合時間が短いのでシニアサッカーは一点の重みが大きいです。先制されて逆転するのが結構大変ですね。

Q.サッカーを続ける理由
やっぱり楽しいからですね。世界中でサッカーをやっている人がこれだけ多いというのは、やはり虜になる要素がサッカーにはあるのだと思います。
自分が好きなことを思いっきりやれる環境があるっていうのは、自己実現だと感じています。サッカーをやることでいろんな人とつながりを持って交流を図ることができるし、思ってもみなかった付き合いができたり、話をすることができるので、皆さんにシニアサッカーの世界へどうぞお越しくださいと言いたいです。
特に若い時サッカーをやっていたけど、もう辞めてしまった人に勧めたいです。
全国大会を目指すだけではなくて、色々なレベルで楽しむことができるので、ボールを蹴って広いピッチで走り回るってことだけでも充分楽しいです。私が若い頃は石ころがゴロゴロあったりするような土のグラウンドが当たり前で、雨になったら泥だらけになっていました。でも今は人工芝のピッチが地域の色々な場所にあって、シニアサッカーでもそういうピッチを使わせていただくことが多いので、これもすごく幸せなことだなと思ってやっています。

Q.シニアサッカーでの思いがけない出会い
50歳で加入したチームの仲間とは今12年目になるのですが、こういう歳になっても、身体を張って同じ目標に向かっていく仲間ができたことが、何より思いがけない出会いだと思います。
高校の時、所属していたサッカー部のレベルはあまり高くなくて、当時は帝京高校や本郷高 校が東京のトップを争うようなチームでした。たまたま全国選手権の東京都予選で本郷高校と当たることがあって、当時私は1年生で後半残り10分ぐらい出してもらったのですが、手も足も出ず負けてしまいました。その本郷高校には同じ1 年生ながらエースのスター選手がいました。50歳になって本郷高校のOBチームと公式戦を戦ったのですが、その選手が相手チームにいて、その選手が1点入れて私も1点決めて1対1で引き分けました。16歳の時から30数年を経て、自分がゴールをして引き分けたというのは感慨深かったですね。後からその選手とも親しくなって当時の話をしたらすごく懐かしがっていましたが、その試合のことは一切覚えていなかったです。

Q.シニアサッカーをしていて感じた良いこと
苦しいこともありますが、生き生きと日々を過ごすことができますね。週末試合をして勝っても負けても次の試合に切り替えて月曜日から仕事をするのですが、いつも次の試合のことで頭がいっぱいです。そんなことを言うと同僚に叱られちゃうと思いますけど。
プレーしている人も、サポーターとして応援している人も、サッカーが好きな人は、週末の試合を楽しみに活力にして平日生活している人が多くいると思います。
なにか1つかけがえのない楽しみなものを持っているというのは人生に充実感を与えると思うので、もし持っていないという人がいれば、私はサッカーを勧めたいです。

Q.サッカーをしていて辛いこと
怪我がつきものということです。この10年の中でもアキレス腱を断裂したり、ひざの靭帯を伸ばしたりしてしまいました。
ドリブルで仕掛けたり、体を張ってディフェンスしたり接触が多いプレースタイルだから怪我が多いのだと家族に言われています。自分自身はこれだけ楽しいことをしているから、やむを得ないと思うのですが、家族には迷惑をかけていると思っているので、そのバランスを取る努力をしています。

Q.サッカーをやることに対しての奥さんの反応
程々にと言われています。本当はスポーツクラブで走ったりプールに入るぐらいで健康でいてくれるっていうのを1番望んでいると思うのですが、それでも諦めて続けさせてくれています。
妻と旅行に行く予定があったのですが、同じ日程でオーバー60の全国大会の東京都予選が被ってしまって、チームの皆に謝り、旅行に行きました。
自分がサッカーを長く続けていくためには、何より家庭を大事にすることが大切だと思っています。

Q.サッカーをしていて一番嬉しかったこと
嬉しかったことはたくさんありすぎて、決め切れないですね。35歳からサッカーを再開して、61歳までこれだけ長い期間、幸せな時間を過ごしていることが、何より嬉しいです。
偉大な先輩方がシニアサッカーの世界にもいらっしゃるので、その人たちと同じように長くやりたいなという気持ちはあります。

Q.今の夢
東京でナンバーワンのチームとして全国大会に行って優勝したいというのが当面の夢です。ライバルチームには元日本代表や元日本サッカーリーグの選手がいるのでなかなか厳しいですが。
将来的な夢は、オーバー70のカテゴリーになったときにも、東京代表に選ばれるレベルの選手でいられたらというのが夢であり、先の目標です。

Q.引退の時期
体がもつ限り、トップのレベルでやりたいと思いますし、体が思うように動かなくなったらエンジョイでもボールは蹴っていたいと思います。
シニアサッカーの人たちは、引退を考えている人は少ないのではないかと思います。
トキオ・ロホFCの先輩で60歳半ばの若さで亡くなった選手がいました。その選手にすごく可愛がってもらって、チームや試合のレベルに馴染むことができたという感謝の気持ちがあるので、その選手の思いも自分の中に持ってサッカーを続けたいと思います。
もっと早い時期に怪我や病気でサッカーを辞めなければいけなくなった人もいるので、サッカーを続けていられること自体が、嬉しいですし、本当に幸せだなと思います。

Q.思い出に残る試合
たくさんあって、なかなか特定しにくいのですが、思い出に残る試合の中でも、シビレルような、魂が震えるような試合があります。
1つは社会人で入っていた区役所のチームの時に、東京23区の大会で優勝した試合です。
当時、私の目標が50歳まではレギュラーでいること、50歳までに東京23区の大会で優勝するということでした。チームは20年以上優勝から離れていたのですが、50歳を迎える年の大会でレギュラーとして出場した決勝戦がPK戦までもつれこんで、私が5人目のキッカーとしてPKを決めて25年ぶりに優勝しました。PKを蹴るときに高ぶる気持ちはありましたが心は冷静で決めることができて、みんなで歓喜したという試合です。
2つ目は現在のチームで全国大会出場を決めた試合です。東京はシニアチームがたくさんあり、レベルの高い東京で優勝をしても、関東大会で3位までに入らないと全国大会に出場できません。その関東大会の3位決定戦で勝利して出場を決めた試合は思い出に残っていますね。
3つ目は埼玉スタジアムで行われたイベントで往年の名選手たちとシニアの選手でやった試合です。私はその試合で釜本邦茂さんと都並敏史さんと同じチームになって、ワクワクしながら試合をしました。都並・釜本・小室のスリートップはシビレましたね。プレーしているうちに都並さんが釜本さんではなく私にボールを合わせるようになって、フリーキックで都並さんのボールを私が合わせてゴールを決めました。その瞬間を妻もスタンドで見てくれていていたので記憶に残る試合になりました。

取材日:2019年10月16日

No.003 坪井奈々

子どもが小学生になりサッカーを始めたことをきっかけに、それまで経験がなかったが、自らもプレーを始めることにした。
取材日にはD級コーチ養成講習会を受講。サッカーの上達のみならず、普段の子育てにも活かすことができる知識を学び、子ども達も長くサッカーが続けられるよう寄り添ってサポートしていきたいと語ってくれました。
夢は子どもと対等にプレーをして、勝つこと。

サッカー歴2年、子どものためにD級コーチ養成講習会に参加されたジェイド二子玉川所属の坪井奈々さんをご紹介します。

インタビュー

Q.サッカーを始めたきっかけ
息子がサッカーを始めて、小学校一年生に上がったタイミングで、私もママさんサッカーがあるというのを知ったので、チームに入って、今はママさんのサッカーの活動をしています。

Q.サッカーを始めてみた感想
難しいですね。
Jリーグとかプロのサッカーを見ていると、皆さんボールの扱いが上手くて、足にボールがくっついているような感じでドリブルしていて簡単そうに見えていました。けど実際に自分がやってみると全くそんなことはなくて、ただ難しいことがわかりました。

Q.サッカーを続けている理由
やはり、チームでスポーツをやる楽しさがあるので、ボールを蹴るのは難しいですが、練習していくうちに少しずつ上手くなってきている気もするので、それが楽しいですね。
私、今までバレーボールをやってきたのですが、ネット越しで相手と戦うので人と人の接触がなかったのですが、サッカーで初めて試合に出た時、こんなに当たってくるんだっていう驚きがありました。
当たられるとこっちも燃えてくるので、夢中になれることが楽しくて。

Q.サッカーをやっていたからこその出会い
やっぱりママさんのチームの方も年齢が幅広いので、私より上の年齢の人も、私より若い人とか世代が違う方達と一緒にサッカーできて、交流ができてっていうのは、情報も色々入ってきますし良かった点ですね。

Q.サッカーを始めて家族の変化
サッカーの話題は増えましたね。一緒にできることも増えましたし、Jリーグも家族で観戦しに行くようになりました。あのチームが強いとか、そういう話で盛り上がることもあります。

Q.サッカーを始めてみてわかったこと
子どもに対して、今シュート打てたでしょとか、走ればボールに追いついたんじゃないとか、結構言いたいことはありましたが、自分がやってみると、ここは打てないとか頑張っても追いつけないとか、気持ちがすごくわかりましたね。

Q.D級コーチ養成講習会に来た理由
子どもに対しての声掛けとか、どのようにサッカーのアドバイスをしてあげたらいいのかがわからないと思ったので、この講習に参加すれば、適切な声掛けができたり、一緒にゲーム感覚の練習ができたり、息子と楽しくサッカーができるのかなと思って受講しました。
サッカーをずっと好きで続けてもらえたらとは思うので、あまり怒りたくもないですし、そういうアドバイスの仕方とか、一緒に家でもできるような練習とか、公園でもできるような練習があれば習得できたらなと思って受講しました。

Q.講習会を受けてみての感想
結構知らなかったことも多いですし、すごく学べたなと思っています。
声掛けもそうですし、小学生の体の成長、精神面の成長の話もあり、どういう時期にどういう練習をしたらいいという話を聞いてすごく勉強になりました。
実技の方も遊びのような感じでやっていたのですが、実はその中にも試合に活かせるような技術が入っていて、勉強になりました。

Q.講習会で学んだことで普段の生活に活かせる事
声掛けの所は特に子育てに活かせそうですね。講習では、判断を促すためのヒントを与えて、子どもたち自身に判断させましょうということを教わりました。これは普段の子どもの生活も勉強もそうですし、判断というのはこれからもずっと続いていくので、親がこうしなさいと押し付けるのではなく、子どもに判断を任せるというのは普段からもできることかなと思います。

Q.サッカーはどういう存在か
すごく良い息抜きになっているとは思います。やっぱり練習したり、試合をしてる間っていうのは仕事の事とか家庭の事とか全部忘れて、私自身でいられますし、頭もスッキリします。
サッカーがない時より今の方が活き活き生活できているのではないかなと思います。

Q.サッカーをしていて一番嬉しいと感じる瞬間は
試合中、シュートを決めた時、アシストする時はもちろんですが、ボールを追いかけて追いついた時も、すごく快感で楽しい瞬間です。

Q.今後のサッカーとの関わり方
今後もできる限り自分が選手として続けていきたいというのもありますし、息子たちにも長く続けてもらいたいので、C級コーチ養成講習会で学んだことを普段の生活から活かしてサポートできたらなと思っています。

Q.今の夢
息子たちと一緒にサッカーをやりたいですね。
私は時々、夫のフットサルの仲間のところに遊びに行かせてもらってフットサルに参加しているのですが、息子たちはまだ小学校3年生、1年生だから大人に混じると危ないと思ってあまり試合に出させてはいないのですが、もう少し大きくなったら家族で同じチームでフットサルとかやってみたいですね。
対戦して対等にもやりたいです。気を遣わずに全力で戦ってみたいですね。

取材日:2019年12月8日

No.004 城戸淳一

社会人になり、サッカーから離れたが、子どもがサッカーを始めるタイミングでコーチを再開。家族の理解も得つつ、チームの子どもたちに良い指導ができるようにC級コーチ養成講習会を受講し、改めて指導方法を学び直す。
仕事でどんなに疲れていても、子どもたちが楽しそうにサッカーをしている姿をみると元気をもらえ、日々活き活きと生活できていると語ってくれました。

約20年ぶりにコーチを再開し、改めて指導方法を学び直している、まちサカFC所属の城戸淳一さんをご紹介します。

インタビュー

Q.サッカーを始めたきっかけ
サッカーを始めたきっかけは、幼稚園の時です。走ることが大好きだったので、両親が近所にあるサッカークラブに行ってみたらどうかと言ってくれた事がきっかけです。

Q.指導者になったきっかけ
初めて指導をしたのが20年ぐらい前ですね。
大学生の時に、私が昔所属していたクラブチームのコーチ陣に再会しまして、アルバイトでおいでよと声をかけていただいて、自分のサッカーもやりつつ、小学生に教えるということを始めました。

Q.プレーする側から指導する側になって、感じたこと
楽しさもあり、難しさもありますね。
サッカーをやっていなかったら出会わなかった子たち、年齢も全然違う子たちと一緒にサッカーが出来ることは純粋に楽しかったですね。
やはり指導者なので僕が発した言葉で子どもがサッカーを嫌いになってしまったり、大人は嫌だとかってなってしまう可能性があるわけで、人の人生に関わっているというところで、少し怖かったですね。
なので、当時指導者の資格として、サッカー協会の準指導員(※現在のC級コーチ)を受けさせていただくきっかけがあって、その時は非常に助かりました。とても勉強になりました。

Q.その時に学んだことは
今も学んでいるC級の内容と同じところもありますが、サッカーのテクニック以外で、指導者として子どもたちの見本にならなくてはいけないといった人間育成に関わる人としてのマインドを学べたと思っています。

Q.今はどういった形で指導者を
大学を卒業してから社会人になってサッカーから離れまして、結婚をして子どもを授かって、そこからまた娘の友達のお父さんお母さんたちから、サッカーやってたんだって?というところから、近所のサッカーチームあるからおいでよ、とお誘いを受けて、初めて娘と一緒に練習に行ったチームが今私の所属しているチームです。

Q.そのチームに初めて練習に行ったときの気持ち
またすぐに指導者をやろうっていう気持ちまではなかったですが、子ども達とお父さんコーチが練習をしている光景を久しぶりに見て新鮮でした。
娘も一緒にサッカーをさせてもらう中で、チームの方から、ちょっと指導やってみてくださいよと言われて、久しぶり笛をもって指導させていただいた時に、すごく楽しくて、またやってみたいなって気持ちが芽生えました。
私が学生の時に指導をしていた時はクラブチームだったので、お金を払って行く習い事としてのクラブチームだったのですが、今のチームは、お父さんたちが一生懸命指導の勉強をしながら、やり方がわからない中で、悩みながら子どもたちと一緒に体を動かしてるっていうところが、とにかく素晴らしいなと思いました。そこに昔指導の経験があった自分が来た時に、お父さんたちが、教えてください、とか、一緒にやっていきましょう、っていう声掛けをいただいたというのがまた嬉しかったですね。

Q.家族の反応
指導者を再開するときに、妻に話をしたら、もう大賛成というか、好きなことを出来る環境をいただいて、呼ばれているうちが花よと言われながら、楽しいならやってきたらいいんじゃない?と言ってくれて。
娘は一緒のクラブチームには所属しているのですが、女子チームにいて、僕は教えないようにしているのですが、娘と話をすると、お父さんがコーチをやるのはすごく好きだと言ってくれているんで、ありがたく指導させてもらっていますね。

Q.改めて指導者資格を取る理由
私が昔指導の勉強をしていたと言っても、20年も前なので、サッカーの指導方法とか考え方も変わっているだろうし、近隣にクラブチームがたくさんある中で、私たちがボランティアのパパコーチとしてやってはいますけれども、子どもたちに対しては他のチームに劣らない指導内容でいなくてはいけないかなと思っています。
子どもたちの一生に一度の人生ですし、伸び盛りの子どもたちを指導しているので、その子たちに良い指導が出来るようにと思って、また勉強し直さなくてはいけないなと思って来ています。

Q.今まで指導をされていて一番嬉しかったこと
いっぱいありますね。
試合中、子どもたちが一生懸命必死になってやっていて、ファインプレーをしたときに選手同士でハイタッチをするシーンを見たときですかね。
プレースキルの熟達度に違いはあるのですが、その中でも、子どもたち同士でチームワークが見えた瞬間、これは私たちが教えられるところではなかったりするので感動しますね。
あとは、昔教えていた子たちがまたチームに戻ってきてくれたりとか、大人になってお酒を飲みに行ったときに、昔私の言ったことを覚えていてくれたりとか、そういう事を語れるのはまた嬉しいですね。

Q.今の夢
今私はプレーヤーとしてもシニアリーグでプレーしていますが、やはり長く続けられているというのはすごく楽しいですね。なので、夢というほど大袈裟なものではないのですが、このまま体が動くうちは指導もプレーもずっと続けていけたらなと思っています。
なんとか怪我もせず出来ているので、好きなサッカーがこのまま続けられたらそれは幸せですね。

Q.サッカーの好きな所
プレーをするのはもちろん好きなのですが、サッカーをきっかけとして人と出会う場が多いので、コミュニケーションツールみたいな要素が僕の中ではあります。
例えば今教えている子たちも、地域の子とは言っても娘の友達じゃなければ会わない子たちも集まるわけですし。
旅行先でもボールひとつあるといろんな人とサッカーを通じて友達になれたりするのは、サッカーの好きなところですね。
インドネシアに行ったとき、靴を履いていない子もいれば、シャツもない子もいたり、村と村でサッカーの試合をやっているようなところで、試合が終わった後に僕がちょっとボール貸してと言ってリフティングとかを見せた時にみんな食いついてきて、来週の試合に出てくれとか、そういう声掛けがあったりとかも楽しかったですね。
ボールを蹴っただけで人が寄ってきてくれるっていうのも嬉しかったですね。

Q.指導をするうえで仕事との両立
土日に仕事が入ることもありますので、なかなか指導が出来ない時もあります。
そういった中でもお父さんコーチ同士でみんなサポートし合ってやっているので、そこはすごくありがたく思っています。私個人としては、仕事は仕事で楽しくやりたいですし、指導があるからまた仕事もまた活気づくというのですかね、両立というと言葉がいいですけど、すごく活き活きと生活が出来ているかなと思います。
これも子供たちのお陰ですね。仕事で疲れて体はきついですが、チームの練習に行った時に子どもたちが楽しそうにやっている姿を見ると元気をもらえますね。

Q.指導していて悔しかったこと
サッカーは勝ち負けがあるスポーツですし、子どもたちも真剣に勝ちを目指して試合をやっています。その中で色々な課題はあるにしても、やっぱり負けて悔しくて泣くんですよね。そういう瞬間を見た時には、勝たせてあげられない、指導者として悔しいなって、その試合の勝ち負けより子供たちにまだまだ教えられてないなっていうところの悔しさは感じることがありますね。

Q.指導者として心がけていること
今、私は幼稚園生から小学生を見ているのですが、心がけていることは、サッカーが楽しいと思ってもらえるように、上手くても下手でもいいので、続けてくれるように、成長の一翼になれたらいいなと思っています。

取材日:2019年12月21日

No.005 奥田篤

小学生の頃にサッカーに魅了され、社会人になっても仕事と家庭と両立しながら週3、4日サッカーをする生活。
40歳過ぎてまで手が痺れるぐらいの緊張感を味わったり、仲間と楽しんだり悲しんだり、仕事やプライベートとは別に、本気で自分を出し切れる場所がある。

むさしのFCウインズ所属の奥田篤さんを紹介いたします。

インタビュー

Q.サッカーを始めたきっかけ
兄がサッカーをやっていて、兄が家で昔やっていた「ダイヤモンドサッカー」をテレビでずっと観ていて、当たり前のように幼稚園の頃から家でサッカーを観ているのが、興味を持ったきっかけですね。
兄と遊ぶ時もサッカーをやったりしたりして、サッカーが自然と身の回りにあったのがきっかけなのかなと思います。

Q.本格的に競技を始めた時期
小学校3年生から地元の小学校のチームに入って始めました。
その頃、兄は2人とも剣道をやっていて、親も剣道をさせたがっていました。サッカーも剣道もやっていたのですが、サッカーの方が圧倒的に楽しくて、本当にすぐにハマりました。練習がない日も夜遅くまでずっとボールを追いかけていました。
その頃はフォワードで、点を取るのがすごく気持ち良くて、普段の学校生活では味わえない感覚がありました。点を取るとみんなが寄ってきて一緒に喜んで、みたいなのがすごく楽しかったので、最初の頃はとにかくキックの練習ばっかり、やっていましたね。

Q.中学時代のサッカーとの関わり
僕が小学校6年生の時までは進学予定だった中学校にサッカー部があったのですが、僕が中学校に入った瞬間、顧問の先生が陸上部をやるって言って、サッカー部がなくなってしまったんですね。なので、私は中学校の時はサッカー部じゃなくて、将来サッカーをやるために足が速くなっておこうと思って陸上部に入っていました。
中学校の時は地元のクラブチームみたいなところで週1回くらいしかサッカーをしていませんでしたね。

Q.サッカーをやりたいのにできない当時の気持ち
小学校の時の卒業文集を見ると、その時はプロのJリーグはまだなかったのですが、それでも「将来日本でサッカーがプロスポーツになり、そこでプロになりたい」と書いたくらい気持ち的にはサッカーが好きだったんですが、僕が中学校の時は、今みたいにクラブチームが街中にいっぱいあるような状況でもなかったので、本当に絶望しました。
でも将来のために何が必要かって言ったら、足が速いほうがサッカーに役立つだろうと思ったので、足が速くなるためにひたすら走ること頑張ろうと思い、走っていまいしたね。

Q.高校時代のサッカーとの関わり
僕が入った高校は都立高校でした。みんな中学校の時にサッカー部でやっていて、僕は陸上部の変な奴がきたみたいな目で見られて、それでもやりたいって言って入れてもらって、高校の時はサッカー漬けでしたね、朝7時に学校に行ってチームメイトと練習をしたりだとか、部活が終わって、夜帰ったら近所の公園でサッカーボールを蹴ったり、高校の時はサッカー漬けの日々でしたね。
陸上は陸上で楽しかったですが、中学の時はなかなかサッカーの仲間も集められなくて、寂しかったです。高校に入って自分よりも上手い人が集まって、全国に行くまでのレベルではなかったのですが、東京都大会で上を目指して、みんなで気持ちが一緒になってサッカーができる環境がすごく幸せでしたね。

Q.高校時代の思い出
僕の高校は、都大会に出た事がなくて、いつも地区大会で負けていたのですが、3年生の時に初めての都大会に出場しました。進学校だったこともあり3年生になると上手い人も辞めていってしまったのですが、僕は最後まで続けたいと思い、最後まで残って、その時に初めて都大会に進むことができました。
都大会に出られたので、先生の希望でユニフォームを作ることになったのですが、先生は僕が絵を描くことが好きなことを知っていたので、エンブレムを書いてくれと頼まれ、カンガルーのエンブレムをデザインしました。そこから今までずっとデザインは変わらないままで、いまだにユニフォームの胸にカンガルーの絵がついていて、昔よりも強豪校にもなりテレビに出たりもして、そうすると自分がデザインしたエンブレムがテレビに映っていたり、電車に乗っていても、自分が作ったエンブレムのジャージを着ている後輩たちがいて、そのエンブレムを見る事自体がすごく好きで、自分が母校にした事が残っているのはすごく嬉しいですね。今でも試合の応援に行ったり、年始の蹴り初めに参加したりしています。

Q.その後大学に行って、就職という流れで、サッカーとの関わり方
小、中、高とずっと地元にいて、サッカーを高校も最後まで頑張ったので、勉強を後回しにしてしまい、一浪してから大学に行きました。勉強していく中でサッカーの他にもやりたいことが見つかって、建築士になりたいと思ったんです。小学校の時の思っていたプロのサッカー選手になりたいという夢は、高校まで本気でやって、現実的ではないと思い、それなら、サッカーは一生楽しみながらやって、好きな絵を描いたり、建築の方で頑張ろうと思い、大学は建築専攻の大学に行きました。サッカーはサークルで楽しくやろうっていうことで、大学時代はサークルでやっていましたね。
ただ、結構本気のサークルで週に4、5回ほど練習したり試合したりしていたので、図面の授業を途中で抜け出して練習に行って、練習終わったらまた授業に戻って図面書いてみたいなことを繰り返していました。この仲間とはいまだに一緒にボールを蹴ったり飲みに行ったりしています。

Q.社会人になって忙しくなって、どのように関わっていたか
大学の時代から、サークルでプレーしながら社会人チームにも入っていて、勉強とも両立していて、サッカーをやめるという選択肢は本当になかったです。とにかく上手くなりたくて、社会人になってからも、仕事しながらも、アマチュアの中で、少しでも上のレベルでやろうと思って、ずっと色々な東京都のチームでやり続けていますね。
プレーの頻度は平均すると、社会人になって10年くらいまでは、週3、4でやっていましたね。違うチームだったりするんですが、土日は両方試合があったり、平日の夜にやったりですね。去年までは、朝の6時半から8時半までサッカーをやってから会社に行くみたいな生活をしていたりして。週末も平日も、もちろん仕事の手を抜くわけではなんですけれども、仕事をしながら、サッカーにもだいぶ時間を割いて、やっていましたね。

Q.会社の人の反応は
今だと部下も何人かいたりして、僕が夏に汗をかいて会社にくると、「奥田さんまたサッカーしてきたんですか」みたいなことを言われて、みんな僕がサッカーを好きなことは知っていますね。

Q.サッカーと仕事、両立する上でお互いに作用すること
それはすごくありますね。例えばサッカーが仕事にどう影響するかっていうと、例えば、僕が大好きなリーダーって、モウリーニョなんですが、サッカーって本当に上手いだけじゃ勝てないし、一体感がなければ駄目だなって思っていて、チームがいかにまとまるか、みたいなのはモウリーニョを参考にしたり、サッカーで経験したとこを参考にして仕事にも活かしていますね。逆に仕事でも色々とリーダーシップや組織論も学びますが、そういう物はやっぱりサッカーにも活かされていると思います。
例えばですけれども、23歳とかと一緒にサッカーやるんですね、で、サッカーした後も色々喋っていて、若い人の感性だとか感覚っていうのをすごく感じる事ができて、その感覚を仕事に持っていくと、会社での若手の気持ちとかも、多分ですが多少わかるようになっていて、そういう言ったところまで組み込んだ育成だとかコーチングだとか、アドバイスとかができるので、そういう意味でもサッカーをやることによって仕事にも活きているのかなと思います。
また、健康でエネルギッシュいることが、仕事をする上でも生きていくうえでも大切なので、サッカーを続けることは仕事にも良い影響を間違えなく与えていると思いますね。

Q.自分より年下の人とサッカーすることに関して
複数のチームに所属しているので、一般の若い子と一緒にやることも多いですね。ピッチでのコミュニケーションは敬語の人もいればそうでない人もいます。
昔からピッチの中では「敬語使わなくていいよ」と言ったりだとか、「奥田さんって呼ばないで試合中はオクでいいよ」とか言ったりして、試合中だと年齢関係なく、コミュニケーションが本当にフラットになるのかなって思いますね。
でも若い人のほうが走れるので、すごい怒られるんです。(笑)だから会社に行くと奥田さんって呼ばれるのに、試合中は明らかに体力は負けるし、足の速さも負けるんで、「もっと速く走れよ!」とか、「もっとちゃんとフォローしろよ!」って23歳に言われるんですね。体力的にしょうがないのかもしれないんですが、悔しいんですよね。
悔しいから、最近毎日走っているんですけども、「少しでも体力を維持しよう」って、その悔しさがまたバネになるみたいなところもありますね。

Q.サッカーを続けるためにしている事
特に45歳を過ぎて、やっぱりすごく、体力の衰えを感じたんですね。なんとかしなきゃと思っているところに、新型コロナウィルスがきて、在宅勤務も多くなって、何かきっかけがないとなかなか変われてない人なので、「あ、これだ。」と思って4月から走り始めて、体幹トレーニングも始めました。
結果的に半年で12kgぐらい痩せて、筋力量も落ちていないので、すごく走れて、改めて久々に本気で走ったり本気で筋トレをしたのですが、やっぱり基礎体力は大事だと改めて感じて、今も力を入れてやっていますね。

Q.ご家庭を持たれて、サッカーをやるという時のご家族の反応
1人目の子が生まれた時は、3ヶ月位はやっぱりサッカーをやらない時期がありました。出産に立ち会ったのですが、子どもを産むのを見て、毎日子どもが泣いていて、流石に週末に自分だけサッカーには行けないなと思ったので、その時期は週末もサッカーに行かない時期がありましたね。でも毎日家の中でリフティングしていました。
結婚する前から、妻は僕がサッカーばっかりやっていることは知っていたので、多分諦めがあります。「あなたはいつもサッカーに行っちゃうから週末はサッカー未亡人なのよ」みたいなことを言っているのですが、すごく理解があって不満を口に出すことはほとんどないですね。妻が満足しているかどうかは分からないですけど、僕が家にいる時はなるべく洗濯だとか、料理、皿洗いは、当たり前のようにするようにしています。僕の中では頑張ってやっていますけど、たぶん妻は全く納得していないと思いますけど。(笑)

Q.お子さんの反応
中3の娘と中1の息子がいるのですが、私がサッカー大好きというのはわかっているので、「どこ行くの?」「サッカー。」「行ってらっしゃい。」と言ってくれていますね。
子どもたちも水泳を今すごく頑張っていて、全国レベルでやっているんですよね。そうやって、スポーツに打ち込んでいる事がどういう事か分かってくれているので、諦めもあるかもしれないですけれど、多分理解してくれているのかなと思います。

Q.試合を観にくることは
子どもが小さい頃は、半ば無理矢理に連れて行っていたんですね。そうすると、僕がサッカーをやっている間、子どもはベンチでずっと待っているので子供にとってみれば、2時間ベンチでずっと待っているっていうのが苦痛で、それがトラウマになってそれ以来もう来ないですね。
サッカーよりも、妻がやっていた水泳をとって、水泳にハマっているという感じです。

Q.サッカーの魅力
いっぱいあるのですが、普段生活をしている中では味わえないくらい、本気になれるのかなと思っていて、家庭にいても仕事をしていても、体も頭もフルに使って全てを出し切る場所ってあまりないのかなって思っていて、サッカーは本当に頭も体もフル回転して、試合が終わった後に倒れるくらい走って、なんかそう言う自分の全てを出し切る場所なのかなって、思っています。

Q.サッカー人生の中で1番嬉しかったことは
本当に色々あるのですが、最近で言うと3年前ですかね、O-40のリーグ戦で2部から1部に上がった時が、すごく嬉しかったですね。試合の前の日に緊張して寝れなかったりだとか、試合が始まる前に緊張して手がすごく冷たくなって痺れていたりだとか、40歳過ぎてまで、そこまで本気なって、かつそんな緊張感が味わえるってなかなかないですし、その後勝って、祝勝会でみんなで飲みに行って、最高でしたね。
結構際どい試合だったので、単純に本当に嬉しかったですね。他のこと全て忘れて、本当に嬉しいって言う気持ちに包まれたみたいな感じでしたね。

Q.引退を考えることは
僕は地元のサッカー協会にも関わっていて、そう言った中で大会の運営とか事務局もやったりするんですけれども、そうすると60歳以上の大会とかあるんですね。先輩方が本気でぶつかり合ったり、楽しそうにやっているのを見ると自分もそこまで続けたいと思いますし、やめる理由がないので、引退するつもりはないですね。だから、走れなくなるまでサッカーやりたいなって思いますね。

Q.奥田さんの今の夢は
今はO-40のカテゴリの東京都1部でやっているんですけれども、その上位のチームがすごく強いので、その1部の中でもトップに立ちたいなという気持ちがあります。
あとはサッカーを少しでも長く続けたいって言うのが、ある意味夢ですね。

Q.プライベートや仕事とは別にサッカーチームというコミュニティを持つ意義
楽しい場所がいっぱいある方がいいなって単純に思うんですよね。僕にとってサッカーチームはいろんな刺激を受けられる、刺激を受けたり感動したり悔しがったりする場所。僕の中では会社が全てではなくて、会社も自分が表現する場所であり、サッカーも色々なチームに所属してきましたけれども、それぞれ自分を表現する場所であり、それが多くてかつ、それぞれ本気になれるほど人生が楽しいし、豊かになるなと思っています。なので、いろんなところに所属して、いろんな刺激を受けて、いろんな仲間と会って、楽しんだり悲しんだりするのが、そもそも人生を楽しくする方法なのかなって思います。

Q.サッカーを長く続けられる秘訣
1つは体力面でいえば体力だなと思うんですよね。あとはやっぱり、サッカーの試合をするにしても支えてくれる人がいっぱいいて、多くの人に支えられているっていうのを理解することですかね。プロではなく、アマチュアサッカーなので自分たちで運営する必要があって、運営事務局や審判、試合相手など、誰かがかけてもサッカーをできない。
対戦相手だとしても、お互い助け合って、感謝してサッカーをすることが大事ということも意識しています。
皆、普段は仕事を持っているので怪我をさせないよう、しないようにとても気を付けるのも大事なことです。
僕は地元のサッカー協会の理事長をやっているんですけれども、サッカーの運営まで考えて携わることで自分もプレーができるし、そのプレーをする環境に自分も入れるし、そうすることによって、いろんな形でサッカーに携われて、サッカーを長く続けられているのかなと、すごく思いますね。

取材日:2020年10月24日

No.006 茂怜羅オズ

ビーチサッカーに出会い、人生が変わった。日本に帰化し、日本代表選手としてワールドカップの舞台に立ってきた。日本はふるさと、日本代表は家族。日本のために少しでも力になりたい、と今日もビーチのピッチに立つ。

ビーチサッカー日本代表 監督兼選手の茂怜羅オズさんを紹介します。

インタビュー

Q.ボールをけっている一番古い記憶は?
自宅のマンションの近くで友人とボールをけっていたことをよく覚えています。自宅から5分ほど歩いた場所にあるビーチでビーチサッカーに出会いました。近くにサッカー場が無く、ビーチの方が近かったので、ビーチサッカーをよくプレーしていました。6歳くらいから、ビーチサッカーのスクールに入ました。本格的にビーチサッカーを始めたのは10歳くらいだったと思います。

Q.はじめからビーチサッカーというわけではなかった?
ブラジルでは、子どもたちは特に、ストリートで、仲間が集まってコンクリートの上でボールをけっていた、という感じですね。

Q.その時はどんな思いでボールをけっていましたか?
その当時は、サッカーも楽しかったですが、何よりも友人と集まることが楽しかったという思い出です。ボールが無いときも、靴下とか、いろいろなもので工夫してボールを作ってボールをけっていました。ストリートサッカーなので、裸足でプレーしてケガしたりもしましたが、そういうことも含めて、友だちと集まって遊ぶのが好きでした。

Q.初めてビーチサッカーをプレーしたときの記憶はありますか?
あります。参加したビーチサッカースクールの初日、子どもが少なかった記憶があります。始めた当初は、ビーチサッカーの選手になる、という夢を明確に持っていたわけではありませんが、ボールをけることが好きでしたし、砂の上でも芝も上でも自分にとっては違いがありませんでした。海が好きだし、サッカーも好きだから両方やれることが幸せかな、って。

Q.ブラジルでのビーチサッカーとは?
ブラジルではビーチサッカーは人気のあるスポーツです。テレビでもよく放送されていますし、週末はプロの試合もよく見に行っていました。スタジアムはいつも5000人~6000人くらいの観客で埋め尽くされて、盛り上がります。

Q.その経験がビーチサッカーの選手を目指すきっかけに?
そうですね。自分の周囲にはビーチサッカーをやっている人も多かったし、テレビで放送される人気スポーツだったし、海も好きだし。本格的にスクールに入って14歳までずっとビーチサッカーに没頭していました。ただ、14歳のある日、ヴァスコ・ダ・ガマからスカウトを受けました。私のビーチサッカーの試合を見ていて、トライアウトに招待されました。トライアウトを受けて、そこから、ビーチサッカーとサッカーを両立していました。

Q.どのタイミングでビーチサッカーを選んだ?
ちょうど16歳になるタイミングで、プロになるチャンスがあったので、これまでの自分の経験から考えて、ビーチサッカーの方が自分の技術を生かしやすいと考えてビーチサッカーに絞りました。家族やコーチは、私の将来のことも考えてくれてサッカーを勧めましたが、将来サッカー選手と同じ人生にならなくても、自分の好きなことであれば辛いときでも頑張れる、という思いがあったので、ビーチサッカー選手としてプロ契約をしました。

Q.日本に初めて来日したのは?
2007年の4月6日です。2006年に初めて日本に招待されたのですが、ビザの関係で来日を1年延ばして2007年に来日しました。レキオスFC(現・東京レキオスBS)の監督が元ブラジル代表選手で、引退後、日本で監督に就任していました。その監督とは、ブラジルで同じチームでプレーしていたこともあり、スカウトされました。自分は小さいころから、サッカー選手になって海外でプレーしたい、という目標・夢がありました。自分の中では漠然とヨーロッパかな、と思っていたので、日本から招待されたとき、最初はびっくりしました。ただ、当時レキオスFCは沖縄にあって、監督からは、沖縄は地元のリオと変わらない、という話を聞いていました。実際に来日してみたら、海もとてもきれいですし、沖縄の人たちもすごく優しくて、違う国いる、というイメージがありませんでした。

Q.日本の印象は?
正直、最高でしたね。自分は小さいころから漠然とヨーロッパに行きたいと思っていました。サッカー選手がブラジルから海外に移籍するのは主にヨーロッパだったので。実際、自分もドイツやスペインでプレーしていて、ビーチサッカーのレベルも高かったですが、自分のプレーする場所という感じがしなくて。逆に、日本に来て、違う国に居るというイメージがなく、自分の故郷のように感じました。困ったとき、言葉がしゃべれなくても、どこへ行っても日本人は親切で助けてくれて、すぐに友だちがいっぱいできました。13年経った今でも、困ったことがあるとすぐに助けてくれます。日本に来て本当に良かったなって思っています。

Q.日本でビーチサッカーをプレーしてみて?
日本のビーチサッカーはまだ始まったばかりで、ブラジルやロシア、スペインという強豪国と比べたらまだ発展途上ではあります。でも、みんな毎日一生懸命練習していて、自分も日本のビーチサッカーを強くしたいという思いが強くなりました。大変なこともあったけど、みんなと一緒に頑張っています。

Q.帰化をしようと思ったきっかけは?
沖縄で2年間プレーした後、所属チームの拠点が沖縄から東京に移動したことに伴って、私も初めて東京に来ました。それまで以上に多くの人と出会って日本のことを知る機会が増えました。日本語の勉強だけでなく、文化に触れたりするうちに、ずっと日本に住みたいという気持ちが強くなりました。もちろん、ブラジルに居る家族に会いたいという気持ちもありましたが、住むなら日本がいいなって思っていました。それからチームメイトにもいろいろ話を聞いてみて。チームメイトに日本代表の選手も多かったので、代表活動のいろいろな話も聞いていました。
自分はワールドカップに出たいという夢はありましたが、不思議とブラジル代表に入りたいという思いはありませんでした。自分の夢はやっぱり、海外に住みたいということ。日本に来て、こんなに多くの人に支えられていることで日本人になりたい、という夢ができました。
当時のビーチサッカー日本代表監督だったラモス瑠偉さんにも自分の想いを伝えたところ、ラモスさんが日本代表の合宿に誘ってくれたのです。そこで初めて日本代表の練習を見て、日の丸を背負ってプレーしたいという気持ちが強くなりました。ラモスさんのことは来日前から知っていました。2004年・2005年のFIFAビーチサッカーワールドカップは地元コパカバーナビーチで開催されたこともあり観戦していました。特に2005年は、ラモスさん率いる日本がベスト4になったのでよく覚えています。当時は特にラモスさんとの交流があったわけではありませんが、来日後は同じブラジル出身ということもありサポートしてもらいました。

Q.帰化をするとき、家族の反応は?
家族には、相談するというより、「私は日本人になります」って言いました。家族も何度か日本に来ていて、日本のことが好きだし、応援するといってくれました。日本代表としてプレーすること、監督に就任したことを喜んでいて、応援もしてくれています。当時ブラジルで一緒にプレーしていた選手の多くは、今ブラジル代表として活躍していて、大会などで会うと、「オズが日本代表のキャプテンになっていることを想像できなかった」という話をします。みんな応援してくれて、そういう話ができることがうれしいですね。ゼロからスタートして、みんなで頑張ってこれて良かったな、と思います。

Q.初めて日の丸のユニフォームに袖を通したときの気持ちは?
日本代表選手として初招集される前に、ラモス元監督時代、コーチとして日本代表にかかわっていました。
帰化をしたのは2012年12月12日。その日は自分の中で一番うれしい日で、自分の誕生日より大切に思っています。来日してからずっと自分の心は日本人だと思っていましたが、改めて、日本国籍となり、日本代表選手として日の丸のユニフォームを着てプレーしたことに感動しましたし、言葉で説明できないくらいうれしかったです。

Q.ブラジル代表と対戦したとき気持ちは?
ブラジル代表に勝ちたいと思っていました。代表に入るという夢があって、日本代表に入って、試合で勝って今まで支えてくれたみんなに恩返ししたい、という気持ちがありました。ブラジル代表だけでなく、他のどの国と対戦しても、自分は日本人で、日本代表として戦っているので、ブラジル代表と対戦しても気持ちが揺らぐことはありません。強豪のブラジルに勝って、日本代表がどんどん成長してほしい、強いチームに勝ちたい、という思いです。

Q.日本代表ってどんな存在?
「ビーチサッカー」、「日本代表」は私の全てです。ビーチサッカーのために生きている、といっても過言ではないし、この競技が本当に大好きです。今、ビーチサッカー日本代表の監督兼選手という立場ですが、休日もこれまでの試合を分析したり、どうすれば日本代表が強くなれるか、どうやったらもっと盛り上がるかな、と考えています。海外のビーチサッカーを見ると、人気のある競技ですし、日本のビーチサッカーも強くなって盛り上げたいといつも考えています。ビーチサッカーと日本代表は私にとって「家族」です。

Q.昨年、FIFAビーチサッカーワールドカップでMVPを獲得しました。
昨年パラグアイで開催されたFIFAビーチサッカーワールドカップパラグアイ2019は、私にとっていろいろな思い出があります。代表で100ゴールを達成しましたし、MVPを受賞できました。
ワールドカップまで国内合宿も海外遠征も多くやってきて、強豪チームとも対戦しました。その過程でチームもどんどん成長して、チームが1つになったという自信がつきました。ワールドカップという舞台でもロシアやポルトガルといった強豪チーム相手とも互角に戦えていたので、ベスト4という結果は正直悔しいです。「ワールドカップで優勝する」という言葉は、簡単に言える言葉ではありませんが、私個人としては、日本代表はまだまだいけるんじゃないかと思っていますし、いろいろ見えてきたものもあります。ワールドカップでベスト8・ベスト4といった成績をこれからも続けていければ、いい選手が育ってくれるんじゃないかと思っています。

Q.ビーチサッカー日本代表監督を引き受けた経緯は?
日本サッカー協会から監督のオファーを受けたとき、日本のビーチッサッカーを盛り上げるために自分が力になれれば、と思って引き受けました。ただ、まだ34歳で体も元気で、引退することは正直考えていませんでした。監督兼選手という立場は大変なところもありますが、スタッフも選手もサポートしてくれるし、チャレンジしたいという気持ちになりました。監督と選手を兼務することは、難しい道ですしプレッシャーもあります。でもこれまでもチャレンジの人生でしたし、日本のビーチサッカーがもっと強くなるために、一生懸命がんばります。

Q.監督就任に際して、ラモス瑠偉前監督から何か言葉をかけられた?
監督のオファーがあったとき、ラモス前監督には相談しました。オズが決めたことなら応援すると言ってくれました。

Q.監督としての難しさは?
選手の時は戦術のことに集中できますが、監督は、選手がきちんと理解できているか等、周りのことも見なければいけない。自分がピッチの中に居ながら監督としての指示を出さなければいけない、という大変さもあります。練習中は、田畑コーチがピッチの外から違う視点で見てくれていて、コミュニケーションを取りながらチームに伝えています。田畑コーチの他、ゴールキーパーコーチやフィジカルコーチもいます。リーダーシップをもってベンチから声を出してくれる選手も多くいます。自分が監督兼選手ですが、スタッフや選手も積極的に指示を出してくれます。田畑コーチとは長い間日本代表で一緒にプレーしてきたので、信頼していますし、監督兼選手という立場に安心してチャレンジできています。

Q.日本をどのように強くしていきたい?
もちろん、ワールドカップで優勝したら状況も大きく変わると思いますが、まずは国内にリーグが発足し、日本の皆さんにビーチサッカーのことをもっと知ってもらい、盛り上げてもらいたいと思っています。ワールドカップ常連国のポルトアルやロシアといった国々もリーグがありますし、みんなプロ選手です。その中に、リーグを持たない日本がベスト4に並んでいることは素晴らしいと思います。日本代表の多くの選手は普段、地域リーグや全国大会でプレーしています。地域ごとにリーグ戦や大会を開催している地域もありますが、バラつきもあります。まずはJリーグやFリーグのように毎週試合が開催され、毎試合の真剣勝負の中で各個人が成長していくことが全体的な底上げになると思っています。毎週どこかで試合が開催されているという環境を増やせれば、ビーチサッカーを見てくれる人も増え、そこから良い選手も育成されて、結果的に日本代表も強くなる、ワールドカップで結果を残せるという良いスパイラルが生まれれば、日本のビーチサッカーは強くなります。

Q.ビーチサッカー日本代表のどんな姿を見せたい?
ヒーローという存在にしたいですね。競技人口はまだ少ないですが、どの選手もみんな並々ならぬ努力をしています。来日後13年間、日本のビーチサッカーの成長を目の当たりにしています。簡単に「ヒーロー」という存在になるのは難しいですが、日本代表として一生懸命闘っている姿を応援してください。

Q.日本のビーチサッカーはどう変わった?
毎日練習しているチームはまだそう多くありませんが、チーム数は増えています。ビーチサッカーのピッチも増えてきていますし、各地域でのリーグ戦や大会も開催されています。来日した2007年当時に比べたら、全国規模でビーチサッカーがプレーされている状況は大きく変わってきていると思います。

Q.ビーチサッカーをやったことで得たことは?
ビーチサッカーをやっていたから、応援してくれる人も増えて友たちもいっぱいできました。ビーチサッカーをやっていたから、こんなに素晴らしい国に住むことができていますし、日本人になることができて、毎日感謝しています。ビーチサッカーに出会えたから、いろいろなことにチャレンジできているし、人生が変わりました。

Q.ビーチサッカーをやっていなかったら人生どうなっていた?
考えたことないですね。ビーチサッカー選手になる夢しかなかったので。人生がないっていうのは大げさかもしれないですが、ただ幸せな人生になっていなかったかもしれないですね。想像がつかないです。

取材日:2020年11月5日

JFAの理念

サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、
人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する。

JFAの理念・ビジョン・バリュー