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【オリンピックへつなぐたすき】李忠成選手インタビュー(京都サンガF.C./元日本代表)
2020年03月24日
東京オリンピックで絶対に成功してほしい
2008年の北京オリンピックを経験して日本代表へ。海外移籍も果たすなど、今も第一線で活躍する李忠成選手。当時を振り返ってもらいながら、オリンピックで得たことや感じた世界との差、そして現在のオリンピック代表候補に向けたエールなどを語ってもらいました。
感動を共有できるのがスタジアムの良さ
――今シーズンは京都サンガF.C.に加入しました。京都の街並みや雰囲気をどのように感じていますか。
李 京都は歴史的な建造物がたくさんあって、街並みが美術館みたいです。歩いているだけで感動する、世界で一番の街ではないでしょうか。加入前から、京都サンガF.C.は街を盛り上げられるクラブでなければならないと思っていました。今は、J1に上がることを目標に、スポーツで街に貢献できる立場になっていることを幸せに感じます。
――サンガスタジアム by KYOCERAが2月にオープンしました。スタジアムの特徴を教えてください。
李 すごくコンパクトで、良いスタジアムですよね。収容人数が3万人ほどの、サウサンプトン(イングランド)のスタジアムに似ていて、一体感が感じられました。
サッカーは、競技自体の楽しみだけでなく、サポーターが一体になる非日常的な雰囲気もエンターテインメントだと思います。また、一つのゴールで喜んだり、悲しんだりするため「スポーツとは感動の瞬発力」といつも言っているのですが、一瞬で感動できるからこそ面白い。2万人以上の人たちと感動を共有できるのが、このスタジアムの良さだと思います。選手としても、チャンスで固唾(かたず)をのむ状態から、得点を取ってパーンとはじける瞬間をピッチの中で味わえるのは快感でしかありません。僕は得点するためにサッカーをしています。自分が得点するとうれしいし、周りの人が感動してくれる姿を見て、また感動します。いつもその瞬間のために、きつい練習を頑張っています。
毎日がセレクションの気持ちで選手間の競争に挑む
――2007年に日本国籍を取得し、北京オリンピックの予選に挑むU-22日本代表のメンバーに選ばれました。日の丸を初めて背負ったときの気持ちを教えてください。
李 僕は国籍を持っていた韓国代表だけでなく、子どもの頃からカズさん(三浦知良)やラモス瑠偉さんを見て、日本代表にも憧れていました。日の丸を背負った瞬間はうれしい気持ちよりも責任の方が重過ぎて「やるしかない」「俺が日本代表を背負っているんだ」という気持ちが湧きました。
一方で、ここからが大事という気持ちもありました。李という名前で、日本代表としてオリンピックに出るのがモチベーションだったので、メンバーに選ばれ続けるために毎日がセレクションという気持ちでいました。当時の代表にいた平山相太とカレン・ロバートの二大巨頭に割り込んでいくには、結果を出すしかありません。とにかく自分がゴールするか、アシストしないと、次の試合に呼ばれないという気持ちで毎試合挑んでいました。
――チームはアジア2次予選、同最終予選で厳しい戦いの連続でした。
李 印象に残っているのは、1-2で敗れた最終予選のカタール戦です。相手がオリンピック出場を決めたかのように喜んでいるのを見て「まだ終わっていない。ここからひっくり返すぞ」と、皆で一致団結しました。ギリギリの戦いを経験したからこそ、毎試合チームとして成長できたと思います。サッカー人生の中で、大きな経験になっています。若いうちにいろいろな国に行ってさまざまな文化に触れたのも人生の財産になっています。
――当時のメンバーは、後に日本代表で活躍する選手も多くいました。
李 厳しい試合が続きましたが、チームの雰囲気はめちゃくちゃ良かったです。反さん(反町康治監督)のおかげで、選手間の競争がありましたし、当時は身近に海外移籍する日本人選手が増えてきたタイミングだったので、選手の視座も高かった。代表で活躍して、海外から良いオファーをもらおうと、皆が頑張っていました。練習中やリラックスルームでも「俺は海外に行くんだ」「海外はこんなもんじゃない」という声が飛び交っていましたし、お互いに足りない部分を話し合ったりもしました。「これから海外でもまれて、ワールドカップで優勝するんだ」とずっと話していたのを覚えています。
北京オリンピックを経験したから成長できた
――北京オリンピックはアメリカ、ナイジェリア、オランダと同グループになり、全敗で終わりました。
李 純粋に相手が自分たちよりも強かったですね。選手それぞれのアピールしたい気持ちが強過ぎて、チームがバラバラになっていました。個人の力量の方が勝っていて、チームとしてまとまれなかったから、当然の結果だったと思います。また一方で、自分のプレーが全く通用せず、海外の同世代がこんなにすごいなら、海外のトップチームの選手はもっとすごいんだろうなと思わされました。ただ、あの結果があったからこそ、皆が世界の壁を痛感できました。負けた瞬間はかなり落ち込みましたが、そこから多くの選手が自分に足りないものを追い求めて世界に飛び立てたのはプラスでした。その後の選手たちや日本代表を見ると、北京オリンピックを経験したから成長できたと思います。
――李選手が感じた世界との差とは。
李 世界の舞台に、場慣れしていないな、と。海外に飛び立つ前の選手ばかりだったので、緊張で自分のプレーを出せていない選手が多かった。1試合目で勝っていれば勢いに乗れたと思うんですが、負けてしまったのも痛かったです。個人的には、オリンピックという大会をリスペクトし過ぎていて、思うように楽しめなかったんです。その後、国際試合を何試合か経験していくうちに、経験の重要性を感じました。
――オリンピックを終えてから、次なる目標として掲げたことは。
李 僕は、大会後に燃え尽きました。オリンピック後、目標を立てることができず、柏レイソルに戻っても、漠然と試合をこなしていました。環境を変えなければいけないと思って、サンフレッチェ広島に移籍したのですが、半年たっても自分の中でしっくりこない状態が続きました。ただサッカーをこなす日々の中で、2010FIFAワールドカップ南アフリカをテレビで見ていたら、北京オリンピックを一緒に戦った選手がたくさん出ていた。それを見たときに「俺は何をやってんだ」と思い、そこから変われました。「なんでアイツらが日本代表に選ばれて、俺は選ばれていないんだ。代表を目指すしかない」と思えたんです。ワールドカップが終われば代表監督が代わることもあると思ったので、そこで代表に入ろうと新たな目標ができました。人って1秒で変われると、身に染みて分かった瞬間です。
オリンピック初戦に勝てば上位まで行ける
――東京オリンピックを控えるU-23日本代表をどう見ていますか。
李 僕たちの頃は、熱血とか気持ちというワードが出てきていましたが、今の世代の選手は、まず「うまい」というワードが出てくる印象があります。「悟り世代」と呼ばれるように、淡々とブレずにプレーできるのが特徴かな、と。横浜F・マリノスで一緒にプレーした三好康児(ロイヤル・アントワープFC/ベルギー)はプレー中だけでなく、プライベートでも一緒にいる時間が長かったんですが、ブレずに悟っているタイプでした。それがプレーにも表れていて、ミスをしても慌てることなく、淡々と次のプレーに移っている。堂安律くん(PSVアイントホーフェン/オランダ)や久保建英くん(RCDマジョルカ/スペイン)とかを見ていても一緒で、落ち着いている選手特有の強みを感じます。
北京オリンピックは、これからっていう選手が多かったですが、今のU-23日本代表には海外経験が豊富な選手がたくさんいます。緊張感のある場に慣れている選手も多く、ホームの追い風もあるので、初戦に勝ったら上位まで行くのでは、と楽しみにしています。僕が今の代表にいれば、初戦で先制点を取れればノックアウトステージまで行けるから、自分が絶対に取ろうという気持ちで挑むでしょうね。
――最後に、若い選手たちに伝えたいことはありますか。
李 自分の人生を変えられる舞台というのは数えるほどしかありません。選ばれた選手しか立てないオリンピックの舞台に立ち、人生やサッカー選手のキャリアをより良くしてほしいです。浦和レッズで一緒にプレーした橋岡大樹には「ただ試合に出るだけでは駄目だぞ」とアドバイスしてきました。試合に出て何か光るものを残さないと、試合に出ている意味がない。僕たちは失敗したことが後の成功につながりましたが、今の選手たちには東京オリンピックで絶対に成功して、幸せなサッカー人生を送ってほしいです。
(このインタビューは2月下旬に行われました)
プロフィール
李 忠成(り ただなり)
京都サンガF.C.所属
1985年12月19日生まれ/東京都出身
2004年にFC東京U-18からトップチーム昇格を果たす。その後は柏レイソル、サンフレッチェ広島でプレーした後、イングランドのサウサンプトンに移籍。帰国後は浦和レッズ、横浜F・マリノス、今シーズンからは京都に所属。
代表では、08年に北京オリンピック出場。日本代表には、11年のAFCアジアカップカタール2011初戦のヨルダン戦でデビュー。同大会決勝でゴールを決めて優勝に貢献した。国際Aマッチ11試合出場、2得点。