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JFA100周年カウントダウンコラム第2回~黎明期~
2021年09月08日
日本サッカー協会(JFA)は9月10日(金)に創設100周年を迎えます。100周年を記念し、1921年の創設から現在までを振り返るカウントダウンコラムを掲載します。第2回は1956年~1989年頃までの日本サッカー黎明期について、サッカージャーナリストの国吉好弘さんにご執筆いただきました。
東京オリンピックで見せたチーム強化の成果
1959年6月に1964年オリンピックを東京で開催することが決まった。戦後の復興、日本の近代化を世界に示す絶好の機会だった。東京大会に向けて日本オリンピック委員会は60年ローマ大会には全競技を参加させることを決定。しかし、予選を勝ち抜かなければならないサッカーはこれに敗れて、全種目の中で唯一出場できないという屈辱を味わう。
日本サッカーは低迷していた。58年に東京で開催したアジア競技大会でもフィリピン、香港に連敗してベスト8にも残れず、アジアでもB級のレベルを認めざるを得なかった。日本協会首脳は東京オリンピックに向けて、何とか代表チームを強化しなければならないと議論を重ね、外国人コーチの招へいに行き着く。
当時の野津謙会長が西ドイツサッカー協会に手紙を書き「日本サッカーへの協力と、有能なコーチの派遣」を要請する。同じ敗戦国ながら54年ワールドカップに優勝するなど、世界のトップに君臨する西ドイツは日本にとって格好の手本だった。これに同協会が応え派遣されたのがデットマール・クラマーだった。代表チームのコーチも務め、若手の育成に手腕を発揮していたドイツでも有数の優れた指導力を持つクラマーは、人間性も素晴らしく自ら日本代表チームの懐に入って情熱を注いだ。指導はまず基本的な技術、個人戦術の徹底から始まり、自ら手本を示す技量も備えていた。さらには人を見る目にも長け、チームを指導する中でまだ30歳を過ぎたばかりの若い長沼健、岡野俊一郎を日本代表の監督、コーチに据えチームを変貌させた。
クラマーの指導に選手たちも応えた。数度の海外遠征、本大会前には3カ月におよぶ合宿生活を続けてチーム力を高めた。東京オリンピック本番では初戦で南米の強豪アルゼンチンに3-2で勝ち、グループリーグ突破を決める。準々決勝ではチェコスロバキアに0-4で敗れたが、ベスト8入りは目指した目標を達成するものだった。
メキシコでメダル獲得も後には続かず…
さらにチーム強化の成果は4年後に現れる。東京でのチームは半数が23歳以下と若く、大型ストライカー釜本邦茂はまだ20歳、大会でも注目された快足ウイング杉山隆一も23歳だった。このチームはほとんどがそのまま日本代表を構成し、68年メキシコ大会への予選では宿敵韓国に競り勝って出場権を得る。その間もクラマーが残した提言を実行し、海外遠征を重ねて国際経験を積んだ。
メキシコ大会へ臨んだ18人のうち実に14人が東京大会のメンバーだった。中でもこの年1月から3月にかけて単身西ドイツへ留学し、本場での取り組みを体感してきた釜本の成長が著しく、本番で爆発する。初戦のナイジェリア戦でハットトリック、準々決勝のフランス戦で2ゴール、そして地元メキシコとの3位決定戦でも2点を挙げて勝利に導き、日本は銅メダルを獲得した。
東京、メキシコでの快挙はサッカーの普及にも多大な影響を与えた。クラマーの助言によって東京大会の翌年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)は大きな関心を呼び、確実にサッカーの認知度を高め、競技人口を増やした。メキシコ大会直後のJSL三菱対ヤンマーの試合には杉山と釜本の対決ということもあり、国立競技場に過去最多となる4万人の観衆を集めた。
しかし、期待された70年メキシコ・ワールドカップ予選ではあえなく敗退。主砲の釜本が肝炎に倒れて戦線離脱したことが大きかった。しかも、64年からほとんど変わらないメンバーは一様に年齢を重ねていた。一つのチームを集中的に強化し、後継者の育成がおろそかになっていたツケが回ってきた結果だった。
そのツケは思いの他大きく、釜本が復帰しても代表チームの成績は戻らず、72年ミュンヘン、76年モントリオール、80年モスクワのオリンピック、74年、78年ワールドカップと予選敗退が続く。
プロ選手の誕生で少しずつ希望の光が差す
1980年代に入っても状況は好転せず、むしろさらに悪くなり、JSLの観客も減少傾向をたどった。そんな中で関心を集めたのが高校サッカーだった。1977年1月からそれまで関西で長く行われてきた全国高等学校サッカー選手権大会が首都圏での開催となり人気を博す。浦和南高校(埼玉)、帝京高校(東京)など首都圏のチームと技術レベルの高い静岡学園、清水東など静岡勢の争いから全国に強豪校が生まれるようになって80年代は最も注目を集めるサッカーのイベントとなっていた。同時期には全国少年サッカー大会も始まり、全国的な普及、高校サッカーへの人材供給でも大きな役割を果たした。
日本代表も80年代後半には高校サッカーから人材が輩出されたこともあり、上昇の兆しを見せる。86年ワールドカップ予選では韓国との最終予選まで勝ち上がり、ここで敗れたものの、あと一歩のところまでたどり着いた。続く88年ソウル・オリンピック予選でも最終段階まで勝ち進んだが、ここで中国に引き分けでも出場権獲得というアドバンテージを生かせず、やはり最後で涙を呑んだ。
とはいえ、この二つの予選にしても総合力で韓国、中国におよばなかったことは明らかで、全体のレベルアップがまだまだ必要であることは再確認せざるを得なかった。そこで浮かび上がってきたのが「プロ化」への移行である。国内でもそういった議論が高まってきた矢先、西ドイツでプロとして9シーズン、プレーしてきた奥寺康彦が帰国することになる。これを受け入れるためにはまずプロ選手を認めなければならず、86年に「スペシャルライセンスプレーヤー」という名のプロ選手が誕生。奥寺とJSLの日産自動車でプレーする木村和司の二人がこの第1号となった。
JSLでも日産とクラブ創設時から将来のプロ化を目指していた読売クラブは実質的にプロの側面を備えており、プロ化の機運が高まっていく。
1980年代には女子サッカーも芽吹いた。81年6月には初めて正規の代表チームが編成され、89年には女子サッカーリーグがスタートした。
1960年代に東京、メキシコでの快挙はあったものの、続く70年代、80年代は競技のレベルを高めるために進むべき道を見つけられずもがいていた。普及面においては若年層での広がり、技術の向上が見られ、そこに希望を見出したいという時代だった。