2017.07.12
【経験者が語るアジア最終予選の真実#第5回】2006年ドイツワールドカップ:福西崇史<前編>薄氷ながら1次予選を全勝で突破するも、最終予選で待っていたテヘランでの窮地
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自国開催となった2002年日韓ワールドカップの余韻が残るなか、4年後の2006年ドイツ大会を目指すチームの新監督に就任したのは、日本サッカー界の発展に多大なる貢献を果たしたジーコ氏だった。
当時2年に1度行われていたFIFAコンフェデレーションズカップ2003フランスへの出場や、海外遠征も積極的に実施するなど強化を推し進める日本は、2004年2月からのワールドカップアジア2次予選に臨んだ。同組はオマーン、シンガポール、インドの3か国。実力を考えれば、問題なく最終予選に進出できると思われていた。
「実際はきつかったですよ」
そう振り返るのは、当時の日本代表でボランチとして活躍した福西崇史さんだ。攻守両面で存在感を放つ福西さんは、“黄金のカルテット”と称された海外組主体の日本の中盤において、ポジションに争いに勝ち、いつしか欠かせない存在となっていた。
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初戦埼玉スタジアム2002で行われたオマーン戦は、終了間際の久保竜彦選手のゴールで、1-0と辛うじて勝利を手にした。
「もちろん、簡単に勝てるとは思っていなかったけど、ここでつまずいてはいられない。油断ではないけど、次に気持ちが進んでいたというのはあったかもしれないですね。いきなり苦戦したことで、現実に戻らされた。そんな試合でした」
続くアウェイでのシンガポール戦でも、82分に藤田俊哉選手が決勝ゴールを奪い、2-1と薄氷の勝利だった。
「僕は出ていなかったんですが、立っているだけで暑かった。環境に慣れることや、アウェイでの相手の頑張りなど、いろんな難しさを感じましたね」
2002年の日韓大会は自国開催だったため予選は免除されており、当時の日本代表の中にワールドカップ予選を経験した選手が少なかったことも影響した。
「出場権を勝ち取るという使命のもとで戦ったのは初めてだったので、責任は思った以上に大きかった。一つひとつの試合がこれほど重いものなのかと、実感させられました」
一方で、勝つことだけではなく、本大会を見据えて世界で勝てるチーム作りも同時に行なっていく必要があった。
「予選だけで終わりじゃないですからね。切符は取らなければいけないけど、チーム力を上げていかなければいけない。勝たなければいけないのはもちろん、世界を考えたときの戦い方だったり、気持ちの持っていき方だったり。外からのいろんな声があるなかで、やらなければいけないことはたくさんあった。そういう部分も含めて、簡単ではなかったと思います」
それでも、4月の欧州遠征では強豪のチェコに勝利を収め、6月の遠征ではイングランドと引き分けるなど、日本は着実に世界基準へと近づきつつあった。良い流れで迎えたワールドカップ1次予選6月のインドとの第3戦は、7-0と快勝。この試合で福西さんは代表初ゴールを奪っている。
さらに2004年の夏に中国で行われたAFCアジアカップでは優勝を、劇的な展開での勝利の連続は、日本をさらなる高みへと押し上げていった。秋に行われた残りの2次予選の3試合はすべて完封勝利を収め、結果的に6戦全勝で最終予選進出を決めた。
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もっとも、2005年の2月から始まるアジア最終予選に向けて、日本は万全の状態にあったわけではない。当時の状況を福西さんが振り返る。
「時間がないなとは感じていました。毎回代表に集まるたびに復習を繰り返して、少しずつしか積み上がっていないという感覚でした」
そこには、2002年以降急激に増えた海外組の存在も影響していたという。
「国内組は、Jリーグの試合で会った時に話したりすることもありましたけど、海外組とはなかなか意見を合わせる時間がなかった。国内組主体で臨んだアジアカップのベースがある一方で、ジーコは海外組も常に気にかけていた。そういう状況の中で、チーム力が常に積み上がっているわけではなくて、良い部分と悪い部分が試合によって出てきて、一進一退を繰り返している感じではありましたね」
当時の、ジーコ監督は「自由を与える監督」と言われていた。戦術でがんじがらめにするのではなく、選手の個性や特性を生かしたチーム作りを行なっていた。その手法は時に「何もしていない」という批判を受けたが、当の選手たちはジーコ監督のやり方をどのように感じていたのか。
「確かに自由は与えてくれましたよ」
福西さんは、そう振り返る。
「最低限の規律を守ったうえで、自分たちがグラウンドの中でやりたいように、というのは彼の伝え方ではありました。ただ、ブラジル人の監督はそういうタイプが多いですし、僕もクラブでブラジル人監督の下でやっていたので、ジーコが言いたいことや伝えたいことは理解していました。でも、慣れていない選手は、『自由ってなんなの?』って戸惑いを感じていたかもしれない。そこにずれがあったのは確かですね。個人的には、ジーコのやり方が好きだったし、頻繁にコミュニケーションを取るなかで、よりよいチームを一緒に作っているという感覚でした。その分、選手で考えることは多かったですけどね」
また福西さんは、ジーコ監督の知名度の高さも、成長するうえで大きかったと言う。
「ジーコの力で大きかったのは、マッチメイクのところ。今はどういう風にやっているかわからないけど、当時は間違いなくジーコの知名度で強い国とのマッチメイクが実現していた部分もあったと思います。コンフェデレーションズカップに出られたのも大きかったですが、親善試合もイングランドやアルゼンチン、ドイツといった世界的なチームとやる機会が多かったですから。相手のチームの選手が、試合前にロッカーまであいさつに来ていましたからね(笑)。そういう強いチームとやるなかで、スピードだったり、身体の使い方とかを体感できたし、個の部分はすごく成長できたと思います」
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ただし、高い経験値を積み、個の成長を感じる一方で、それが組織力に昇華されるかは別問題だった。手応えと不安を抱えたまま、日本はアジア最終予選に臨むこととなった。
アジア最終予選は朝鮮民主主義人民共和国、イラン、バーレーンの3カ国と同組となった。4チーム中2位以内に入れば本大会出場が決まるというレギュレーションであり、決して難関なミッションではなかった。しかし、ワールドカップをかけた戦いは、やはり簡単ではなかった。日本は初戦の朝鮮民主主義人民共和国戦から大いに苦戦することとなった。
「朝鮮民主主義人民共和国は謎でしたね。だから怖かったというのはありました」
開始4分に小笠原満男選手のゴールで先制しながらも、61分に同点に追いつかれてしまう。ホームでの一戦であり勝利が求められたなか、日本は次第に追い込まれていった。しかし、このまま引き分けかを思われたアディショナルタイム91分、大黒将志選手が決勝ゴールを奪取。2-1のスコアでなんとか初戦を白星で飾った。
「初戦だし、ホームでもあったので、引き分けではダメだと思っていました。苦しい展開でしたけど、なんとか結果を出せたので、次に向かっていけるという気持ちにはなっていました」
しかし、続くアウェイでのイラン戦で、日本は痛恨の敗北を喫してしまう。福西さんが一度は同点となるゴールを叩き込みながらも、終盤に失点し、1-2で敗れたのだ。
イランのテヘランで行われたこの一戦には実に11万人もの観衆が訪れていた。まさに完全アウェイの状況下で、日本は持てる力を出し切ることができなかった。
もっとも福西さんは、1999年に所属クラブのジュビロ磐田の一員として、アジアクラブ選手権の決勝を同じスタジアムで戦った経験があり、その時に比べればやりやすかったと振り返る。
「その時は12万人でしたからね。いろんなものが飛んでくるし、もっとうるさかった。その時の経験を伝えましたが、練習から気後れしていた選手がいたのも確か。声が聞こえないから、あらかじめいろんなことを決めておこうとか、いろいろ話し合ったんですが、想像できない環境で戦うなかで上手く力を出せなかったし、それがアウェイの厳しさなんだと思います」
またこの試合では、それまで取り組んできた3バックを4バックに変えた影響もあった。
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「マコ(田中誠選手)がいなくて、4バックにしたんですが、システムを変えたことによって、スムーズさに欠けた部分もありました。2位まで本大会に行けるレギュレーションなので、最悪1敗はできると考えていましたが、2戦目で早くもその1敗を喫してしまったので、次に負けたら終わりだと。この時点で余裕はなくなっていました」
早くも追い込まれた日本は、試合後のバスの中で緊急ミーティングを行っていた。そしてここでの話し合いが、結果的に今後の戦いに、大きな意味を持つこととなった。