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JFA100周年カウントダウンコラム第3回~成長期~
2021年09月10日
日本サッカー協会(JFA)は9月10日(金)に創設100周年を迎えます。100周年を記念し、1921年の創設から現在までを振り返るカウントダウンコラムを掲載します。第3回は1990年頃から現在までの日本サッカー成長期について、サッカージャーナリストの国吉好弘さんにご執筆いただきました。
Jリーグが開幕 スター選手が日本に集結
1990年代は日本サッカーにとって、激動の10年だった。
80年代後半に胎動を始めたプロ化の動きが、さらに活発になり実現にこぎつける。デットマール・クラマーの薫陶を受けた川淵三郎をはじめとした改革の情熱が20数年破ることができなかった殻を破った。
91年2月に参加する10チームが決定。日本リーグ(JSL)時代の強豪が企業チームからプロクラブへ移行した中で、JSL2部所属ながら新スタジアムの建設やブラジルのスーパースター、ジーコを招へいするなど際立ったアイデアと実行力を示した鹿島アントラーズ(前住友金属)や、「サッカーの町」を自認する静岡・清水に新しく生まれた清水エスパルスなど異色の存在も名を連ねた。同年7月にはプロリーグの愛称が「Jリーグ」と発表され強いインパクトを与えた。
92年3月には最後のJSLが終了し、9月にはJリーグ前哨戦としてヤマザキナビスコカップが始まった。そして93年5月15日、ついにJリーグが開幕。日本サッカーに新しい時代が訪れた。初シーズンのファーストステージを制したのはジーコ率いる鹿島だった。しかし、スター軍団ヴェルディ川崎(前読売クラブ)が巻き返し、セカンドステージで優勝すると鹿島とのチャンピオンシップも制し初代チャンピオンとなった。ブラジルでプロとなり、Jリーグ開幕に合わせて帰国したV川崎の三浦知良は時の人となった。
ジーコの他にも、ラモン・ディアス(横浜マリノス=前日産)、ピエール・リトバルスキ(ジェフ市原=前古河)、ゲリー・リネカー(名古屋グランパスエイト=新設ながら実質前トヨタ)など、世界のスター選手も数多く参戦し、日本人選手たちの技術、フィジカル、取り組む姿勢などが劇的に向上した。
時を同じくして日本代表の強化にも新風が吹き込まれる。92年3月、初の外国人監督、オランダ人ハンス・オフトの就任が決まった。JSL時代にもヤマハ(後にジュビロ磐田)、マツダ(サンフレッチェ広島)を指導して大きく成長させた実績を持ち、日本サッカーの事情にも通じていることから白羽の矢が立った。オフトはかつてのクラマーのようにまず基本的な部分を徹底してたたき込んだ。技術面もさることながら「コンパクト」なライン構成、「トライアングル」でパスコースを確保することなど、個人、グループ、チームの戦術意識を高めた。少年サッカーの普及で技術的にはある程度高まっていた日本人選手に欠けているものを的確に見抜いてのことだった。
アジアの激戦を勝ち抜き初のワールドカップへ
その成果はすぐに表れ、92年8月に韓国、中国、北朝鮮とのダイナスティカップに初制覇。さらには同年10月から11月にかけて広島で行われたAFCアジアカップでも初優勝を果たした。これまで1930年に3か国による極東選手権で、中国との同時優勝はあったものの、全アジアを制したのは初めてのことだ。
この好成績とJリーグの熱狂の中で始まった94年アメリカ・ワールドカップへの予選は大きな関心を集めた。しかし、最終予選に進み、北朝鮮、韓国を連破して勝てば初出場が決まるイラクとの最終戦、2-1でリードした後半アディショナルタイムに同点ゴールを許してアメリカへの切符を逃すという痛恨の結末、いわゆる「ドーハの悲劇」に泣いた。
それでもこの経験により、98年フランスへの予選は国を挙げての関心事となる。当初加茂周監督でスタートした予選は今回ホームアンドアウェイで行われた最終予選で、ウズベキスタンに6-3で勝つ派手なスタート切りながら、ホームで韓国に逆転負けするなど不安な戦い。アウェイでのカザフスタン戦で引き分けに終わると、長沼健会長を中心とした協会首脳は遠征先で加茂監督を更迭する前代未聞の荒療治に出る。ここで急きょコーチから昇格した岡田武史監督が、その後もホームで足踏みしてサポーターが暴動を起こすなどの紆余曲折を乗り越え、出場権を得ることができるプレーオフにまで持ち込む。そしてマレーシアのジョホールバルで行われたイラン戦、もつれ込んだ延長戦で岡野雅行がVゴールを蹴り込み、ついに悲願のワールドカップ出場を果たした。
アジアの強豪へ成長 世界と伍して戦う時代へ
初めて臨んだフランス大会では3戦全敗の洗礼を受けるが、続く2002年は招致合戦の末にFIFAによる苦肉の解決策として日本と韓国で共同開催することが決まっており、フランスの人フィリップ・トルシエ監督の下臨んだ大会ではベスト16に進出した。さらにジーコ監督が引き継いだ06年ドイツ大会、イビチャ・オシム監督で始まり、病に倒れたあと岡田監督が再度率いた10年南アフリカ大会、イタリア人アルベルト・ザッケローニ監督による14年ブラジル大会と続けて予選を突破。その間2000年、04年、11年とアジアカップを制して最多優勝回数を誇るアジアの強豪となった。
なでしこジャパンこと女子代表も飛躍を遂げた。91年に初出場を果たした女子世界選手権(2003年からワールドカップ)、96年初参加のオリンピックにもコンスタントに出場するようになり、徐々に世界の列強に近づいていく。とりわけ佐々木則夫監督が就任した08年以降は、アメリカ、北欧勢など体格、フィジカルの強さを前面に押し出すパワフルな相手に対し、技術の高さとパスワークで対抗する独自のスタイルで存在感を高めた。
08年北京オリンピックでベスト4入りを果たすと、2011年にドイツで開催されたワールドカップではキャプテンでエースの澤穂希率いるチームが快挙を達成する。グループを勝ち抜き、準々決勝では開催国ドイツに延長の末、丸山桂里奈のゴールで勝ち抜き、準決勝ではスウェーデンに3-1で快勝、決勝進出を果たす。ここで女子サッカーでは絶対的王者であり、まだ日本が勝ったことのないアメリカと対戦した。押されながら粘り強く戦い、先制されるも追いついて延長戦へ。ここでも先行されるが、後半も残り3分のところでCKから澤が芸術的な同点ゴールを決めてPK戦へ。GK海堀あゆみが相手を3人連続で失敗に導き、日本は4人目の熊谷紗希が決めて見事世界一の座に就いた。
翌年のロンドンオリンピックでも決勝に進み、ここではアメリカの雪辱を許すも銀メダルを獲得。なでしこジャパンが世界のトップクラスであることを証明した。
その後も時々の浮き沈みはあるものの、男子は18年ロシアワールドカップにも出場してベスト16入り、2021年にずれ込んだ東京オリンピックでもメダルこそ逃したが4位と、いずれもアジア最高の成績で、大陸の頂に構えることが普通となった。この30年は日本サッカー躍進の時代と言えよう。