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岡野雅行さんが語る「ジョホールバルの歓喜」~【経験者が語るアジア最終予選の真実】1998年フランスワールドカップ~

2020年06月18日

岡野雅行さんが語る「ジョホールバルの歓喜」~【経験者が語るアジア最終予選の真実】1998年フランスワールドカップ~

6月26日(金)20:00よりYouTube公式チャンネル「JFATV」にて、日本代表がFIFAワールドカップの出場権を初めて獲得した試合「FIFAワールドカップフランス’98 アジア地区第3代表決定戦 対 イラン代表」を追加配信します。

「ジョホールバルの歓喜」と称され、日本サッカー史に燦然と刻まれた一戦。JFA.jpでは2017年、この試合でゴールデンゴール*を決めた岡野雅行さんへのインタビューを行い、当時のチーム状況や心境を聞いていました。歓喜が訪れる前のプレッシャーや興奮、ワールドカップ初出場を決めた後の秘話――。

ここでは、この歴史的一戦を語り継ぐため、改めて当時のインタビューを再掲します。(肩書などは当時のまま掲載)

*ゴールデンゴール・・・90分間で勝敗が決しなかった場合、延長戦においてどちらかのチームが得点した時点で試合が終了となり、得点をあげたチームが勝者とする、当時採用されていたルール。

【経験者が語るアジア最終予選の真実】1998年フランスワールドカップ:岡野雅行

出番はなかなか訪れず……。“秘密兵器”の葛藤

「もう、日本に帰れない」

再三にわたるチャンスを外し続けた快速ストライカーのメンタルは、崩れ落ちそうになっていた。それでも仲間に鼓舞されて、残されたわずかな時間に人生のすべてをかけた。

そして迎えた延長後半の118分、中田英寿選手が放った強烈なシュートはGKに弾かれる。しかし、こぼれ球にいち早く反応したのは、長髪を振り乱してゴール前に走り込んだ背番号14だった――。

1997年11月16日は、日本が初めてワールドカップ出場権を獲得した歴史に残る一日となった。「ジョホールバルの歓喜」として記憶されるこの試合の主人公となったのは、現在ガイナーレ鳥取の代表取締役GMを務める岡野雅行さんだ。あの劇的なゴールはどのようにして生まれたのか。今も変わらぬワイルドさを保ったままの“野人”に、当時の記憶を呼び覚ましてもらった。

1997年9月8日、日本はFIFAワールドカップフランス大会 アジア最終予選を、ホームの国立競技場でスタートさせた。4年前、あと一歩のところで逃した悲願を成就させるための最後の戦いである。プレッシャーや緊迫感に満ちたシチュエーションであるのは間違いなかった。しかし、岡野さんは「ワクワクしていましたね」と、当時を振り返る。

「僕は無名だったので、プロになっただけでもびっくりされたような選手。それが代表に入って、しかもワールドカップに出るための戦いの場にいられるんです。ドーハの悲劇の時はまだ大学生で、テレビで見ていましたが、まさか4年後に自分がその立場になっているとは想像もしていませんでした」

もっとも代表に招集されてはいたものの、岡野さんは試合ではメンバー外となることが多く、スタンドから試合を見つめることがほとんどだった。

「ハーフタイムに客席のトイレに行くと、隣に僕のユニホームを着た人がいて、何度もこっちをちらちら見てくるんですよ。まさかここにいるはずがないなという感じで(笑)」

メンバー外であることには当然、満足はしていなかったが、初戦のウズベキスタン戦での快勝を「すごいなという感じで見ていました」と、最終予選が始まった頃はまだ当事者ではなく、傍観者のような感想を抱いていた。

ところが第3戦で韓国に敗れると、岡野さんの心境が大きく変化する。

「ホームで負けて、甘くないなと思いましたし、俺が出たらこういうふうにするのになというイメージを強く持つようになっていました。もちろんメンバーに入れているだけでもすごいことだなと思いつつも、なんで出してくれないんだよと。試合を見ながら、いろんな感情が湧いてきていましたね」

日本は初戦のウズベキスタン戦こそ快勝を収めたものの、続くアラブ首長国連邦(UAE)戦に引き分け、最大のライバルと見られていた韓国にはホームで逆転負け。次第に苦しい状況に追い込まれ、世間からの風当たりも強くなっていった。

「マスコミが叩くわけですよね。サポーターも、当時はコアな方がほとんどだったので、厳しい声も飛んでくる。プレッシャーが強くなるなかで、だんだんみんなげっそりしていって、胃薬を飲みながら試合をしているような選手もいました。でも僕は試合に出ていなかったので、一人だけ元気なんです(笑)。暗い雰囲気をなんとかしようと、移動中にバスガイドの真似とかをしたりして、チームを盛り上げるようなことをやっていました」

しかし、事態は好転せず、アウェイで行われた第4戦のカザフスタン戦に引き分けると、加茂周監督が更迭されてしまうのだ。

「もう最悪でしたよね。実はあの試合のあとに、加茂さんに文句を言ったんです。なんで出してくれないんですかって。それで、そのあとにカザフスタンに来ていた知り合いと、ご飯に行っちゃったんですよ。そしたらその時に緊急記者会見があって」

食事を終えてホテルに戻ると、ロビーにマスコミが大挙押し寄せている。

「どうしたんですか?」

「え、岡野君知らないの!」

加茂監督更迭の事実を、岡野さんはスタッフからではなく、マスコミから聞いたのだ。

「部屋に戻ったら。お前何やってるんだよと、さすがに怒られましたけど(笑)」

岡野さんらしいエピソードだが、その事態の重大さは十分に理解していた。

「世間もマスコミも批判だらけ。もう、信じられるのはここにいる仲間しかいなくなったわけですよ。加茂さんだけのせいじゃない。俺らの責任だ。とにかくここにいるファミリーだけは信じて、もう一回やっていこうと。そうやって話し合ったのを覚えていますね」

しかし、岡田武史監督の初陣となったウズベキスタン戦でも日本は勝利を得られなかった。そして岡野さんには、またしても出番は訪れなかった。チームの結果が出ない中でも、チャンスは与えられない。自分が出れば、流れを変えられる。その自負が強かっただけに、岡野さんはこの状況をなかなか受け入れられなかったのだ。

「岡田さんになったら出られるかなと思ったんですけど、やっぱり出られなくて。だから岡田さんに聞きに行ったんですよ。何で出れないのかって」

すると岡田監督は、こう答えたという。

「お前は秘密兵器だ。隠し球にしておきたい。お前が必要な時は、絶対に来るから」

切れそうになっていた岡野さんのメンタルは、この言葉によって救われた。

ホームで行われた第6戦のUAE戦でも、日本はまたしてもドローに終わる。すると試合後に、怒りを抑えきれなくなったファンが日本のバスを囲むという事件が勃発したのだ。

「僕はその時メンバー外だったので、バスではなくてタクシーで先にホテルに帰ったんですよ。みんなで食事をとるために食堂に行ったら、みんななかなか来ないんです。おかしいなあと思って、一度部屋に帰ってテレビを付けたら、大変なことになっていた」

直接的に被害にあっていない岡野さんだったが、この状況が普通ではないことを感じ取っていた。

「もう、精神的にはボロボロでしたね。でも、みんな最後まで信じていたし、勝てないことで結束力が強まった。跳ね返していこうという感じになったのが、その後の戦いにつながったと思います」

すでに首位通過の可能性が潰えていた日本は、グループ2位に入り、第3代表決定戦に望みを託すしか道はなくなっていた。追い込まれた日本は、ここから見事な反発力を見せる。第7戦、アウェイでの韓国戦を2-0でものにすると、ホームでの最終節ではカザフスタンに5-1と快勝を収め、なんとか2位を確保したのだった。

第3代表決定戦の相手はイラン。岡野さんは決戦までのおよそ一週間、虎視眈々と出番を窺い、気持ちを高めていた。

「ついに、秘密兵器の出番が来たなと。もう、試合前までの期間は興奮しっぱなしで、なかなか寝られなかったです。試合前日も、寝ようと思って目をつむればゴールのイメージしか出てこない。気づいたら朝になっていました」

岡野さんはほとんど睡眠をとらないまま、イランとの第3代表決定戦に臨むことになった。

極限の精神状態に追い込まれたイランとの最終決戦

1997年11月16日、決戦の地、マレーシア・ジョホールバルのラルキン・スタジアムに到着した時、岡野雅行さんは興奮を抑えきれないでいた。

「バスを降りた瞬間に、ただごとではないなと。日本人のサポーターがたくさんいて、試合前なのにテンションがすごく高かった。でも、僕はそういう雰囲気が好きなんで、もうやってやるぞという気持ちだけでしたね」

スタメンは前日に発表されており、自身はベンチスタートであることをすでに知っていた。それでも出番は絶対に来ると信じて疑わず、岡田武史監督から指名された「秘密兵器」は、その時に備え、心を研ぎ澄まさせていた。

試合は日本が先制に成功する。39分、中田英寿選手のスルーパスに抜け出した、中山雅史選手が先制ゴールを奪取。1点リードで前半を折り返した。ところが後半立ち上がりに、前日まで車いすに乗っていたアジジ選手に同点ゴールを許すと、59分にはイランのエース、ダエイ選手に打点の高いヘッドを叩き込まれ、逆転されてしまうのだ。

「秘密兵器の出番が来たな」

その時、岡野さんはそう思ったという。率先してアップを行ない、アピールのために岡田監督の視界に入る場所で、びゅんびゅんと走った。

「意味もなく、スライディングまでしてましたから(笑)」

それほどまでに、岡野さんは試合に出たくて、仕方がなかったのだ。

すると63分、岡田監督が動く。2トップの三浦知良選手と中山選手を交代させる指示を出したのだ。

「やっと出番が来た」

そう思い、岡野さんはユニホームに着替えようとしたのだが、声がかかったのは城彰二選手と呂比須ワグナー選手だった。

「おいおい、と。俺、秘密兵器じゃないのかよと。冷静に考えればFWをこれ以上代えることはないだろうから、この時点でもう出番はないのかなと思っていましたね」

ところが76分、城選手が同点ゴールを決めると、岡野さんの頭にある思いがよぎった。

「いや、待てよと。この試合は勝たなければいけないわけだから、攻めに行く必要がある。ということは、まだ出番が来るかもしれない」

しかし、時間が経つにつれ、両チームともに無理をしなくなっていった。1点取られたら終わり。そんな緊迫した雰囲気がピッチを包み込み、あれだけ盛り上がっていた観客席も、固唾をのんで戦況を見守るようになっていた。

「あっ、この雰囲気無理だなと。あれだけ出せって思っていたのに、この状況では出たくない。よし、もうこの試合にはかかわるのはやめようと、ベンチの隅のほうに隠れました(笑)」

結局、試合は2-2のまま後半終了の笛を聞き、ゴールデンゴール方式の延長戦に突入する。岡野さんはもう出る気はなかったが、念のためベンチメンバー全員でアップをしていると、岡田監督が自分の名前を呼ぶが聞こえた。

「まじか、やめてくれよ。ここじゃないだろ」

心が折れそうになりながら、ユニホームに着替えると、岡田監督から声をかけられた。

「入れてこい」

その指示に、岡野さんは無理難題を押し付けられた気がした。ピッチに立っても、なかなか気持ちが乗ってこない。早々にチャンスが訪れたものの、シュートは力なく、GKにキャッチされる。

「アドレナリンが出てこないんですよ。腰が引けていたし、体が思うように動かない。ただ、ヒデ(中田英寿選手)が持ったら本能的に走っちゃうんです。するとパスが出てくるんですよ」

迎えた絶好機、GKと1対1となりながらも、シュートはGKの正面に飛び、セーブされてしまう。

さらに今度はカウンターから、再び中田選手からのスルーパスに抜け出す。

「今度は独走状態。さっき外しているし、今度決めなかったらえらいことになるなと。いろいろ考えていたらGKとの距離が詰まっちゃって、打つコースがなくなったんです。やばいと思って、パッと横を向いたらヒデがいて。いいところにいたと思って、横にパスをしたら、あっさりとカットされてしまいました。敵がいるのがまったく見えていなかったんです。ヒデの顔しか見えていない。頭が真っ白で、まるで試合に入れていませんでした」

決定的なチャンスを逃した直後、ゴール裏のサポーターからは厳しいヤジが飛び、ベンチを見れば岡田監督が怒りの表情を浮かべていた。

前半終了間際にもこぼれ球に反応し、シュートを放ったが、ボールはバーの上を越えていった。3度に渡る決定機逸――。

「これは人生終わったなと。もし負けたら日本に帰れないし、サッカーは辞めようと。そもそも、なんでサッカーなんて始めたんだろうと自分を恨みましたね。」

そんな岡野さんを救ったのは、仲間たちの言葉だった。延長前半が終わり、後半が始まる前に円陣を組むと、選手たちが次々に励ましの言葉をかけてくれた。

「ひどいことを言われるかと思いましたが、『しょうがない』とか、『お前しかいない。頼むから点を取ってくれ』とか。そうやって背中を押してくれた。それで勇気が湧いて、後半になって、ようやくアドレナリンが出てきたんです」

後半も日本が押し気味に進めたが、なかなかゴールを奪えない。一度だけダエイ選手の決定的なシュートが日本ゴールを襲った時、岡野さんの頭は再び真っ白になったが、直後に歓喜の瞬間が待っていた。

「ヒデがまたドリブルを始めたので、スペースに走ったんです。そしたら、ヒデはそのままシュートしちゃって。僕があまりにも決めないから、きっとパスを出すのをやめたんでしょうね(笑)」

しかし、そのシュートはGKに弾かれ、パスを受けようとゴール前に走っていた岡野さんの目の前に転がってきた。GKと目が合った。身体が勝手に反応していた。スライディングしながら、確実にボールをネットに押し込んだ。

「別にスライディングしなくてもよかったんですよ。でもあれも本能なんでしょう。ダフっちゃいけないと、勝手に身体が横になっていました」

決まった瞬間は、頭が真っ白になった。気づけばベンチに向かって走っていた。白く反射するメガネが視界に入り、体ごとその光に向かって飛び込んだ。

試合後は誰彼構わず抱擁を交わし、国旗を背中に、スタンドのファンに向かって感謝の意を示した。しかし、一通り喜んだ末にロッカーに戻ると、声を出す者は誰もいなかった。

「負けたようにシーンとしていましたね。肩の荷が下りたというか、はぁと、ため息をついて。もう、あしたのジョーみたいな感じですよ。みんな、真っ白な灰になっていました」

ホテルに向かうバスの中も静寂に包まれていた。ホテルに着き、食事会場でちょっとした祝勝会を行なったが、盛り上がりに欠け、選手たちはすぐに部屋に戻っていった。

一息つくと、ようやく落ち着きを取り戻した。年齢の近い仲間たちが自然と部屋に集まり、缶ビールで祝杯を上げた。

「名波(浩)とか、平野(孝)とか、モリシ(森島寛晃)とかが集まって、みんなで疲れたよねとか、お前外しすぎだろとか、笑いながらしゃべっていました。そしたら、ふとした瞬間に、平野が真顔で言うんです。『ちょっと待って、俺達ワールドカップにいけるんだよね』って。その時初めて、気づいたんです。試合が終わった時は、勝ったという喜びよりも、やっと日本に帰れるっていう想いのほうが強かった。ワールドカップのことなんて忘れていました。でも、平野の言葉で急に実感がわいて、ワーってみんなで喜んだことを覚えています」

試合に出られずに悶々とした日々を過ごしてきた男が、最も重要な試合で歴史を変えるゴールを決めた。おとぎ話のようなドラマの主人公となった岡野さんだが、しかしこの試合はしばらく彼のトラウマになっていた。

「あの試合の映像は、しばらく怖くて見られませんでした。もし、あのまま負けていたらどうなっていたのかと。あれだけチャンスを外した僕の責任は大きかったと思います。日本のサッカー界もどうなっていたのか分からない。そう思うと足が震えちゃって……」

ゴールを決めたことさえも、十字架を背負わされてしまったと感じていた。

「あの試合の印象が強くて、どこにいっても言われるんです。『Vゴールの岡野』って。所属していた浦和でも、それまではスタメンで出れていたのに、岡野は途中から出たほうがいいと、スーパーサブのような扱いになってしまいました。決めたときはもちろんうれしかったですけど、しばらく経つと、もういいだろうって。あのVゴールはキャリアを歩むうえでは邪魔な存在でしたね」

しかし、ジョホールバルの歓喜から15年が経った頃、娘の言葉が、その呪縛を解き放たせた。

「娘が小学3年生くらいの時に、歴史の本を見ていたんです。そしたら、パパが出ているっていうんですよ。僕は言ったんです。『それはパパじゃないよ、人間の進化の過程だよ』って(笑)。でも娘は、本当にパパが載ってるっていうから見てみたら、ジョホールバルの時の写真が出ていたんです。聖徳太子から始まるような歴史の本に、僕が出ているなんて、驚きでしたね。そういえば、あの場面は切手にもなったんです。そうやって考えたら、俺はすごいことをしたんだなと。歴史に残ることをしたんだなって。そう思った時、あのゴールの呪縛から解き放たれたし、この話をいろんな人にしていかなければいけないなって、思うようになりました」

今では映像を見られるようにもなり、講演で当時の話をする機会も増えたという。

日本中に熱狂を生み出した、ジョホールバルの歓喜は、岡野さんにとっては決していい思い出だけではなかった。極限の精神状態に追い込まれた末に手にした、まさに運命を変えた勝利。日本のサッカー界だけでなく、岡野さんの人生も、あの試合で大きく変わったのだ。

日本が世界を知らなかった時代、ワールドカップをかけた戦いとは、それほど大きなものだったのだ。

あれ以来、日本は5大会連続で本大会に出場を果たしており、ワールドカップ出場は、当たり前のものとなりつつある。

「昔は出なくてはいけないというプレッシャーだったけど、今は出て当たり前というプレッシャーがある。そのなかで質も求められているので大変だと思いますけど、要は勝てばいいんですよ。いいことしてやろうとか、見せようとか、そんな気持ちはいらない。力はあるので、普通にやれば負けることはないと思います。隙を見せず、全力で最後まで戦ってほしいですね」

人生をかけて世界の扉をこじ開けた男の言葉には、経験した者にしか語ることのできない、重厚な響きが備わっていた。

※JFA.jp 2017年6月5日、6日掲載
※肩書などは当時のまま

JFATV Classics 追加配信「ジョホールバルの歓喜」

JFATV

【初回配信日時】6月26日(金) 20:00~ 
【対戦カード】日本代表 対 イラン代表 
【大会名】FIFAワールドカップフランス'98 アジア地区第3代表決定戦

※この試合の配信は初回配信のみとなります。
※日本国内限定配信となります。

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