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オシムさんのこと① ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第21回~

2022年06月28日

オシムさんのこと① ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第21回~

2022年5月1日に80歳で逝去されたイビチャ・オシムさんのことを、私は親しみをこめて「お父さん」と呼んでいた。それはオシムさんが指揮をしていた当時のジェフ市原のコーチの方々も同様である。オシムさんがSAMURAI BLUEの監督になった2006年夏から私はオシムさんの下でアシスタントコーチをしながら、2008年北京オリンピックを目指すアンダーカテゴリの代表チームを率いた。オシムさんが2007年11月16日に志半ばで脳梗塞に倒れたことで、私たちの師弟にも似た関係は強制的にピリオドが打たれた。それでも、わずか1年ほどの間にオシムさんから得た学びは計り知れないものがある。その濃密な時間を振り返ると、いくら感謝してもしきれない思いと、師を失った悲しさがよみがえる。

5月14日の追悼式並びに葬儀に参列するため、私はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪れた。式当日の天気予報は大雨で、実際前日は雨が降って雷まで鳴っていたが、当日は抜けるような青空が広がり、私の心をいくらか軽くしてくれた。午前11時からの追悼式は同国サッカー協会とオシムさんがプレーし監督もしたクラブ、ジェレズニチャルが主催し、しめやかに行われた。会場となったサラエボの国立劇場にはサッカー関係者のみならず、政財界人や文化人も大勢集まり、故人の遺徳を偲んだ。会場ではオシムさんの現役時代の勇姿など過去の映像が次々に流された。親族の席にはオシムさんの奥様、アシマさんがいらっしゃった。その憔悴した姿に胸が痛んだ。「JFAの田嶋幸三会長をはじめ、(SAMURAI BLUEの通訳だった)千田善さんら多くの日本人が感謝と追悼の気持ちでいます」と伝えると、夫人は「thank you」そう答えるのが精いっぱいという感じで、私もそれ以上の声かけはできなかった。

11人の関係者が弔辞を述べた。ジェレズニチャルの会長や元クロアチア代表のズボニミール・ボバン氏らに続いて、私も8番目に英語でオシムさんに感謝と哀悼の言葉を捧げた。オシムさんの下で働き、今はJFAの技術委員長という巡り合わせで私にそういう機会が回ってきたことに縁を感じずにはいられなかった。追悼式を終えると、サラエボ郊外の墓地に向かい、埋葬に立ち会った。追悼式の会場はスペースに限りがあり、招待者しか中に入れなかったが、墓地の方には大勢の人々が集まり、オシムさんに最後の別れを告げに来た。棺の形に穴が掘られた場所にジェレズニチャルの選手たちが棺を運んでゆっくりと置いた。アシマ夫人や息子のアマルさん、お孫さんたちに続いて私も棺に向かって土を投げ入れた。最後は沢山の花々の上に日本代表のユニホームを供え、手を合わせ、ご冥福をお祈りした。

葬儀を終え、ホテルの部屋に戻ると17時を回っていた。テレビをつけるとボスニアの国営放送はロシアのウクライナ侵攻のニュースより先にオシムさんの葬儀を報じた。日本時間では夜中の12時を過ぎていたので、田嶋会長、ジェフ市原(当時)と日本代表でコーチとしてオシムさんに仕え、薫陶を受けた小倉勉(現東京ヴェルディコーチ)、江尻篤彦(現東京ヴェルディ強化部長)、千田さんらにはメールで葬儀の模様を収めた写真を添え、「お別れと感謝の言葉を述べてきました」と報告した。YouTubeで葬儀の模様を見ていた千田さんからすぐに「いいセレモニーでしたね」と返事が来た。ホテルの部屋で黒いネクタイを外した途端、国葬と表現してもおかしくないくらいの葬儀に参列した緊張感も一緒にほどけたのだろう、オシムさんとの思い出が次々に脳裏に浮かんでは消え、自然と大粒の涙が両の目からあふれるように出てきた。それから30分くらい、一人ですすり泣いた。

葬儀の前々日に到着してから葬儀の翌日まで、時間があるとサラエボの街を歩いた。到着してすぐに街中を歩いていると、オシムさんの息子のアマルさんにばったり出会ったのには驚いた。それはともかく、街には1990年代に起きたユーゴスラビアの解体と内戦の爪痕とおぼしき銃弾の跡がまだ残り、1984年のサラエボ冬季オリンピックのモニュメント塔が立つ場所は内戦で亡くなった戦没者の墓地になっていた。ヒジャブをかぶったイスラム系の女性を多く見かけ、夕方には街にコーランが流れた。モスクもあちこちにある。サラエボは私が想像した以上に異文化が融合した場所だった。オシムさんの人間としての幅の広さ、懐の深さは、こういう環境で育まれたのだと腑に落ちるものがあった。

ジェレズニチャルのスタジアムにも足を運んだ。そこもまたオシムさんの足跡が染み込んだ場所だった。どこに行ってもオシムさんの存在を感じながら、私は「なぜ、オシムさんが生きている間に会いに行こうとしなかったのか」と激しく悔いた。自分が恥ずかしくなるくらいにそれが心残りだった。脳梗塞に倒れ、病院関係者の努力で一命を取り留め、過酷なリハビリテーションを経て回復したオシムさんが日本を離れたのは2009年1月4日のこと。オシムさんを見送ろうと、サッカー関係者やファン300人ほどが成田空港に詰めかけた。私もその一人だった。日本のファンの熱い思いに触れて、心が動きすぎたのか。ふらふらになったオシムさんは最後、車椅子に乗せられて機上の人となった。私が見たオシムさんのそれが最後の姿になった。

親と子の関係に似て、いつでもその気になれば会えると思っているうちに、再会の機会は先延ばしになった。2020年11月にオーストリアのグラーツで日本代表がパナマ、メキシコと強化試合を組んだとき、ついにオシムさんに会えると思った。日本に来てジェフの監督になる前、シュトゥルム・グラーツを率いてUEFAチャンピオンズリーグに3度も導いたオシムさんはオーストリアでも有名人で、自宅もグラーツにあった。しかし再会の希望はかなわなかった。新型コロナウイルスの感染拡大により、高齢のオシムさんに会うのはリスクが大きすぎたためである。目と鼻の先の距離にいるのにオシムさんに会いに行けないもどかしさ。日本代表の練習を屋外で見てもらうのも難しい状況だった。「私が自宅の前まで一人で行くので窓から手を振ってください。それをあいさつに代えましょう」なんて話もしたけれど、そこまですることはないとオシムさんに止められた。「変なアジア人がコロナを持ってきたと言われるぞ」という毒舌付きで。それもまたオシムさんらしかった。

選手生活に別れを告げた私は、指導者ライセンスを取得するとコーチ経験無しにいきなり監督業に足を突っ込んだ。つまり、後にも先にもアシスタントコーチの経験はオシムさんと過ごした代表時代しかない。そのころオシムさんに監督会見の態度についてこっぴどく説教されたことがある。北京オリンピック2次予選で香港に勝った後「今日はまったくダメでした」と会見場で話したら、「チームのパフォーマンスに監督が悪口を言ってどうする」と1時間くらい懇々と諭されたのだ。あの怖い顔ですごまれながら。その後、監督としてキャッチーな言葉を発信するようになったのは明らかにオシムさんの影響だ。オシムさんは決して独裁の人ではなく、選手選考でもこちらが真剣に考えたことにはしっかり耳を貸してくれる人であった。

オシムさんが脳梗塞で倒れたことを聞いたのは、北京オリンピック最終予選のアウェイのベトナム戦に備えてハノイにいる時だった。団長を務めていた大仁邦彌さんから伝えられ、当時ジェフ所属だった水野晃樹と水本裕貴を呼んで「オシムさんが倒れた」と告げるのはすごくつらかった。それでも2007年11月17日のベトナム戦に4-0で勝ち、11月21日のホームのサウジアラビア戦に0-0で引き分けて日本の4大会連続のオリンピック出場が決まった。脳梗塞の危機的状況から脱し、意識が戻ったオシムさんが「オリンピック予選はどうなった?」「出場を決めたのか。それは良かったな」と気にかけてくれていたことを後で人づてに聞いた。

オシムさんがオーストリアに戻った後、オシムさんの近況は雑誌のインタビュー記事などで知る程度になった。記事を読んでいると「そういえば、反町は今、何をしているんだ」と聞き手に逆質問するようなことがあり、そういう時は幾つになっても私のことを心配してくれているのかと、心苦しく、ありがたい気になった。オシムさんが元気な間に会って、嫌みのひとつ、ふたつも言われたりしながら、無沙汰をわびたかったと本当に思う。亡くなった大切な人のことは話すことで気持ちが楽になる部分があるし、故人を偲ぶことにもなるだろう。次回は私の目を通して見た、監督としてのオシムさんについて語ってみたい。(つづく)

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