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オシムさんのこと② ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第22回~

2022年06月29日

オシムさんのこと② ~技術委員長 反町康治「サッカーを語ろう」第22回~

イビチャ・オシムという監督を意識したのは、私がアルビレックス新潟を率いてJ1に昇格した2004年シーズンだった。オシムさんはジェフユナイテッド市原(現千葉)の監督になって2年目。当時のオシムさんは就任1年目に市原を第1ステージ3位、第2ステージ2位、総合3位までジャンプアップさせたことで、その指導力が注目される存在になっていた。初対戦は4月18日のJ1リーグ第1ステージ、場所は東京・国立競技場ながらジェフのホームゲームだった。新潟はここでジェフに1-2で敗れたが、8月21日の第2ステージのホームゲームは4万人を超える観衆の前で3-3の引き分け。対戦前にジェフを分析するために試合の映像を見て面食らった。ひと言でいうと「怖いな」という印象。どこからでも選手が湧いて出てくる。テレビの画面の外から右から左、左から右、後ろから前にフレームインしてくる選手はたいていジェフの選手。戻りも速い。その速さが局面で常に「+1」をつくり出して、攻守とも常に数的優位にしてくる。「どういう練習をしているんだ?」と即座に思った。この謎は2006年夏からオシムさんが代表監督になり、その下で僕が代表コーチになることで解けることになる。

ジェフとは2005年シーズンも1分け1敗と、どうしても勝てなかった。印象に残るのは2005年7月9日の市原臨海競技場で戦った試合で、エジミウソンのゴールで先制したが追いつかれ、その後勝ち越したもののすぐに巻のゴールで追いつかれ、アディショナルタイムに得点され結局2-3で逆転負けをした試合である。非常に蒸し暑い中で最後まで足が止まらないチームに驚かされたのである。後日、オシムさんに仕えた江尻篤彦コーチに聞いた話だと、オシムさんはこの試合翌日、失点した同じシチュエーションを再現し、それをどうやったら防げたかという練習を30分以上もやったそうだ。試合に勝ってもこうした状況だから、負けた場合はなおさらである。日本代表でオシムさんの通訳を務めた千田善さんも言っていた。「オシムさんは『しょうがない』『気持ちを切り替えよう』という言葉が大嫌いだった」と。全力を尽くしたから負けてよしとするのではなく、負けの中身をしっかり精査してそれを次の練習や試合につなげる。そうしないと問題は何一つ改善しない。当時のジェフの内情を知る関係者によると、負け試合の後は1時間くらいの説教を食らうのは当たり前だったらしい。さらに帰りのバスの中でもその負けた試合の映像を流させたという。僕が思うに、勝ちと負けじゃ天と地ほど違うというメッセージをオシムさんは監督として送り続けたのだと思う。これは簡単なようで根気の要る作業だ。弱いチームほど負けに慣れ、監督がいきり立っても「暖簾に腕押し、糠に釘」みたいな状態になり、だんだん監督の気力の方が萎えてしまうものだから。

オシムさんの「熱」には僕も代表コーチになる前に実は触れたことがある。2004年7月3日にJOMOオールスターサッカーがビッグスワンで開催された際、私はファン投票でJ-EASTの監督に選ばれてしまった。コーチはオシムさん。いやいや、逆でしょうと言いたいところだが、ファン投票だから仕方ない。前日に顔合わせした時は「君の好きなようにやればいい」と言っていたくせに、ハンドパスを使ってウォーミングアップをやっていたら急にオシムさんが怒りだした。「なんでサッカーを手でやるんだ」「こんな練習じゃ勝てないぞ」と。「オールスター戦ですよ」「お祭りですよ」と言い返したかったが、オシムさんの顔が真剣なので口ごもってしまった。このお父さんはサッカーの試合となると常に真剣勝負なのだ。翌年の2005年のJOMOオールスターもそうだった。この時の開催地は大分。東西の境界線はその年のJクラブの分布図によって変わり、新潟はJ-WESTに組み込まれた。私はJ-WESTの監督で、コーチはガンバ大阪の西野朗監督。J-EASTの監督はオシムさんでコーチは浦和のギド・ブッフバルト監督。私の記憶では試合前日の公式練習は公開されていて、J-WESTは2タッチゲームの練習に僕や西野さんも入ってボールを回して和気あいあい。その隣のコートで、オシムさんは選手に多色のビブスを着せて走り回らせていた。コーチのギドをドイツ語でしかりつけながら。私はしみじみ「西軍で良かった」と思った。

新潟での監督業はかなり燃焼した感じがあったので、2005年シーズン限りでフリーの身になった。充電が必要だった。2006年はテレビで解説の仕事をするようになり、ドイツで開かれたFIFAワールドカップの解説陣にも加わった。ワールドカップ期間中、ミュンヘンに滞在している時だった。JFAの田嶋幸三・技術委員長(現JFA会長)からコンタクトがあり、北京オリンピックを目指すチームの監督をやってもらいたいと打診された。兼任でSAMURAI BLUEのアシスタントコーチもやってほしいと。重責だなと思いながら、コーチ兼任となれば、ボスが誰なのか当然気になる。その答えを聞いた時は、本当に背筋、手足に雷が走るというか、武者震いが起きて興奮が収まらなかった。

オシムさんの船出の試合は2006年8月9日のトリニダード・トバゴとのキリンチャレンジカップ(東京・国立競技場)だった。そこから16日のイエメンとのAFCアジアカップ予選(新潟スタジアム)へと続く連戦。最初のキリンチャレンジカップに向けて、オシムさんが8月4日に発表したメンバーはGK川口能活、山岸範宏、DF三都主アレサンドロ、坪井慶介、駒野友一、MF田中隼磨、小林大悟、今野泰幸、長谷部誠、FW我那覇和樹、佐藤寿人、田中達也という13人だけだった。同時期に開催されるA3選手権や海外遠征のために千葉、G大阪、鹿島の選手を招集できなかったという事情はあるにせよ、かなり異例の事態だった。

こうなったのは理由がある。オシムさんが「直前までJリーグを見ないで、その前の段階で選手を選出するのはおかしい」と主張したからだった。直近の試合でケガをするかもしれないし、調子が変になっているかもしれないと。しかし、チームの総務担当からすると試合はお盆の時期だし、チケットの手配も大変だから可能な限り早めにメンバーを決めてもらって、もろもろの手配がしたい。「そんなギリギリまで発表を遅らせたら選手は定められた日に全員集合できないですよ」「新幹線だって乗れないです」と訴える。そんな反論にあのお父さんはなんと言ったか。今も忘れられない。「夜中に、車で移動すればいいだろう。マネジャーが運転すれば、本人は寝て移動できるだろう。ユーゴスラビアで代表選手を集めた時は、昼間は戦争をしていて、夜に停戦して戦車が止まっている間に選手は自分で車を運転してきたんだよ」。その場がシーンとなった。平和ボケの日本との落差というか。私も同僚だった大熊清コーチも「分かりました」と答えるしかなかった。後日、さらに5人(栗原勇蔵、鈴木啓太、中村直志、山瀬功治、坂田大輔)のメンバーが追加発表され、なんとかチームとしての体裁は整ったのであるが。

誤解されないために言っておくと、オシムさんは偏屈だったわけではない。仕事への精魂の傾け方が半端ではなかったので、それが時に周囲とのズレを生むだけだった。メンバー選びにしても、周りはJFAハウスに朝10時に集合し、午前中はSAMURAI BLUE、午後はオリンピック代表の選考に充てるつもりでスケジュールを組む。ところがオシムさんの場合はSAMURAI BLUEの選考だけで丸1日かかってしまうことがあった。本人は夜通し、Jリーグから海外の試合までテレビで見ていて、選考対象の「○○の何分のプレーをどう思う?」と質問してくる。「見ていません」とは言えないからこちらも気は抜けない。「最終的にどちらが今回の招集にふさわしいと思うんだ?」と聞かれて、もごもごしていると、机をたたいて「はっきりしろ!」となる。オシムさんが怒るのは、相手が自分と等量の熱を持って仕事をしていないと判断した時だった。

ジェフのコーチの話を聞いたところ、オシムさんは練習には、いつも開始時間のぎりぎりにピッチに現れたそうである。クラブハウスに寄らないでジャージのまま車から降りてピッチに入ってくる感じ。ポケットに柿の種があって指導しながらポリポリと食べていることもあったそうだ。好物だったのだ。それを聞いた私がJOMOオールスターの時に『アルビレックス新潟 勝ちの種』という名の柿の種を箱ごとプレゼントしたら、えらく気に入ってくれ「おまえは今までで一番気の利いたスタッフだ」と褒めてくれた。オシムさんは甘党でもあった。脳梗塞のリハビリテーションの間、週に2回はケーキを持参して、お見舞いがてら、いろいろな話をさせてもらったものである。

それはさておき、オシムさんは練習にも妥協はなかった。遠征で現地入りすると、そのまま到着時間に関係なく練習を課すことがあった。困ったのは練習前に僕らスタッフと細かい打ち合わせをしないこと。メニューはオシムさんの頭の中にあり、練習が始まるタイミングで天候やピッチの状態、選手の様子を見て変えることもあるから、事前に確認しても意味がないというのである。ボールの用意とか、ラインをどう引くか、ゴールやミニゴールを幾つ用意してどう置くか、GKはフィールドプレーヤーの練習に何分くらいから入るかとか、スタッフとして事前に知っておきたいことはたくさんあるが、そういう下準備をさせてくれないのだ。「ビブスだけたくさん用意しておけ」。本当にそんな感じ。そうはいってもトレーニング内容をどうしても聞きたいので、ホテルから練習グラウンドまで行く間のバスの20分間でノートを開いて私と大熊コーチ、通訳の千田さんでオシムさんに質問する。オシムさんはこういう練習をしようと言って我々が用意したノートにサラッと5つぐらい書く。でもグランドに着いて、さぁ始めるとなると、打ち合わせとは全く違うトレーニングを始める。記述したとおりのトレーニングはアジアカップで1ヶ月近くベトナムにいた時は1回しかなかったと記憶している。だから私のトレーニングノートは実施されなかったトレーニングメニューで一杯であった。

少人数でトレーニングをしているときは2組に分かれてやり、1つのグループはオシムさんが見て、もう1組は私が見る。10人ずつ2組に分かれる練習では、オシムさんが3対3+4フリーマンのトレーニングをスタートさせる。それにならって私の担当の1組も同じトレーニングをスタートさせる。しかしオシムさんはすぐにビブスを取らせ4対4+2フリーマンに変える。伝令役の小倉勉コーチが急に「ソリさん、変わったよ」と言われてすぐにこっちも変える。すると変わったときにはオシムさんは6対6のトレーニングを隣でやっている。あれっ、増えた!と思ったらそこにGKを入れたりしている(GKもよく走らされていた)。こうしたオシムさんのインプロビゼーションに最初は中々ついて行けず、あたふたする私をチラ見するオシムさんの視線が「おまえ、何をやっているんだ」という感じで痛い。刺さる。最初はそんなことの繰り返しで、選手にも「ソリさん、大変ですね」と同情された。最後の方は半ば諦めて私も自分のアイデアでやっていたこともあった。時々、羽生直剛、阿部勇樹、佐藤勇人らジェフでオシムさんに鍛えられた〝チルドレン〟たちが監督の意図、練習の流れを教えてくれた。「ここでボールホルダーを追い越す走りを強調しないと監督に怒られますよ」とか。これには恥ずかしい話だが随分助けられた。

そんなオシムさんが私の言うことを聞いてくれた希少な経験がある。2007年のAFCアジアカップでのPK戦である。1990年のFIFAワールドカップ準々決勝でオシムさん率いるユーゴスラビア(当時)は、あのディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンにPK戦で敗れてしまった。それがトラウマになったのか、この仕組みを忌み嫌っていた。私はオシムさんに進言した。「グループリーグを終えてノックアウトステージに入るとPK戦が発生します。だからその練習をしましょう」と。オシムさんは「私はPK戦が嫌いなんだ」と取り合わない。勝負がかっているのでこればかりは譲れないと強く主張したら、やっとOKが出た。初めて私のいうことを採用してくれた感じだった。練習の終盤に「おいソリ、PKの練習をやれ!」と言ってオシムさんは早々と木陰に入って水を飲みながら座って休んでいたのを思い出す。AFCアジアカップの準々決勝で日本はオーストラリアをPK戦で下したが、これは事前の準備が生きたと今も思っている。PK戦の順番は私が決めた。先頭から中村俊輔、遠藤保仁、駒野友一、高原直泰、中沢佑二。高原は失敗したが、残り4人が全員決めて4-3で勝った。PK戦の間、ベンチから去ってロッカールームに引きこもったオシムさんに「勝ちました」と伝えに走ったら「雰囲気で分かるよ」と言われた。「この、へそ曲がり」と心の中で思った。

私は、監督に必要な条件に経験値があると思っている。だから引き出しがたくさんある人がいい。そういう意味でオシムさんはサッカーにおいても人生においても、酸いも甘いもかみ分けた、なんでも分かっている人という感じだった。それと数字とかパズルとか組み合わせとか、そういう数学的思考が非常にできる人だった。「ラミー」というトランプゲームが好きで、暇を見つけては我々スタッフと興じた。トランプをしながら「こういうメンバーで先発を組んだらどう思う?」などと質問してくるのだが、ゲームは常に一人勝ち状態。この人がマージャンを覚えたら、相当な雀士になったと思う。

オシムさんの練習で、フリーマンはピッチのニュートラルな位置にいて適当にパスをさばく選手ではなく、タイミングのいい走りで数的優位をつくる存在だった。ボールを保持する側の味方として後ろから追い越す存在になるべきところで、少しでもさぼるとペナルティーとしてピッチの外を周回させられた。一方で、2列目、3列目からボールホルダーを追い越すような走りを見せると「ブラボー」と褒める。ゴールが決まった時もシュートを打った選手より、オフザボールの動きで数的優位をつくった選手をきちんと褒めた。普段は厳しい人だから、褒めるとハートに響くというのもあった。ビブスの色と同時にタッチ数も細かく制限されていたから、ワンタッチパスを正確に入れられる選手は「ブラボー」と褒められることが多かった。そうやって練習で褒められたことをそのまま試合で出すと、おのずといいサッカーになるのだった。

オシムさんがSAMURAI BLUEの監督だったころは、まだ海外組がそれほどチームにいなかった。2007年アジアカップでいえば、海外組はセルティックの中村俊輔とアイントラハト・フランクフルトの高原直泰だけだった。選手を集めて練習するのが好きなオシムさんにはそれが好都合だったと思う。オシムさんの練習は、ほとんどが攻撃ばかりだったことも特記すべきかもしれない。守備練習は試合当日の試合会場でやる程度だった。だからDF陣は結構不安がっていた。最終ラインに加地亮、中沢佑二、闘莉王、駒野友一を並べ、その前に鈴木啓太と阿部勇樹(中村憲剛)のダブルボランチという4+2のブロックだけで練習する。加地は試合直前の練習できっちりクロスを上げたいルーティンがあるのに、そういう個人的な事情はすべて棚上げされ、サブ組にアタッカー役を務めてもらいながら6人で本番直前に守備の練習をしなければならなかった。ジェフ時代から一緒にやっていた江尻、小倉両コーチ(当時)に言わせると「ジェフでやっているのとは守り方は違う」というから、代表でどういう守りを最終的にやらせるつもりだったのかは最後の最後まで分からなかった。というかオシムさんの青写真ではある程度攻撃が熟成してきたら、守備のところを整理するつもりであったのであろう。私は北京オリンピックで予選の間は伊野波雅彦を真ん中にした3バックを採用した。両脇には水本、青山直晃らを使った。本番になったら長友佑都、内田篤人のようなサイドバック向きな人材が出てきて4バックに移行した。SAMURAI BLUEとオリンピックチームでシステムやフォーメーションに違いはあっても、オシムさんは「同じサッカーだろう」と気にすることはなかった。

オシムさんがSAMURAI BLUEの監督を引き受けた理由を折に触れて考えることがある。オシムさんはジェフの監督をしながら、そして代表の試合も見ながら「日本のサッカーはもっとできる」と肌で感じていたのだと思う。その頃のSAMURAI BLUEが日本人の特性を100%引き出して、満ちあふれた状態なら、おそらく代表監督の仕事を引き受けることはなかっただろう。ジェフでの仕事を終えた後、別のチームで監督をすることもなく、そのまま勇退した気もする。オシムさんがJFAのオファーに「イエス」と言ったのは、自分なら日本の力をもっと引き出せるし、長年にわたる指導者人生の集大成としてやるに値すると思ってくれたからではないだろうか。指導者人生の最後を賭けてやると。その意気込みをオシムさんが直接的に口にすることはなかったけれど、私を含め、傍らにいたスタッフは誰もが猛烈にそれを感じていた。

そしてオシムさんは本当に日本人のことをリスペクトしてくれていた。日本人のコーチを育てることにも熱心で、自分の身内や友人、知人を集めて組閣するような真似もしなかった。オシムさんなら、そうしたとしても誰も文句を言わないのに。私がオシムさんから受け取ったものが今の自分を作ったといっても決して過言ではない。恩返しをしたくてもオシムさんはもうこの世になく、返しようもない。でも、オシムさんから学んだものを後に続く者に伝えることはできる。そういう営為をこれからも続けることを誓って、オシムさんへの精いっぱいの手向けの花としたい。

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