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背番号の歴史 ~ワールドカップと背番号の変遷 前編~

2022年09月21日

背番号の歴史 ~ワールドカップと背番号の変遷 前編~

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サッカーと背番号は切っても切り離せない関係にある。

最初に背番号の使用が確認されたのはオーストラリアだった。その後、選手をレフェリーやファンが識別する手段として、イングランドでも試験的に行われ、1939年からリーグ戦にも正式に導入された。当時の背番号はポジションで割り振っていたため、選手たちは試合ごとに違う番号を背負っていた。

背番号導入当時はオフサイドのルールが現在と異なったこともあり、前線に5人のFWを並べる”2-3-5”、いわゆる「V字フォーメーション 」が主流だった。このフォーメーションに合わせて割り振られていた背番号がイングランドを発祥として世界に広まり、現在の背番号に大きな影響を残すこととなった。

GKが1番、フルバックと呼ばれた最終ラインの二人、”2-3-5”の『2』が2番と3番。中盤の『3』は右から4、5、6番で、残る前線の『5』が右から7、8、9、10、11番となる。当時の名残で一番わかりやすいのは前線の中央に構える【9番】で、まさにセンターフォワードの代名詞になって行く。この時点では【10番】がエースというイメージはそれほど定着していなかった。

1930年に第1回大会が行われたワールドカップは、第二次世界大戦による二度の中止を経て、1950年のブラジル大会(第4回)から再開したが、ここで初めて背番号が導入された。この頃には各国のサッカーも独自に発達しており、代表チームが用いるフォーメーションの違いで、背番号にも独自のカラーが出るようになった。

各国リーグやクラブの大会で背番号変動制は1990年代になるまでが主流で、Jリーグに先駆けて行われていたJSLや、オランダリーグなど一部で固定背番号制が採用されるのみだった。しかし、ワールドカップでは1954年大会から固定制となっており、「背番号=ポジション」ではなく「背番号=選手」のイメージが世界に広まって行った。

背番号のイメージにおいて世界的に最も影響を与えたのが、1958年のスウェーデン大会、1962年のチリ大会、1970年のメキシコ大会で三度の優勝を果たしたブラジル代表の”王様”ペレだった。

1958年のブラジル代表は4-2-4というシステムで、前線の中央に【9番】と【10番】が並ぶ形だったが、ペレはあまりポジションに囚われることなく相手陣内を動き、まさしく攻撃の中心として多くのチャンスやフィニッシュに絡んだ。この”王様”ペレのプレースタイルから【10番】はチームのエースナンバーとして認識され、それと同時に、いわゆる「10番タイプ」というプレースタイルが確立されていく。
「10番タイプ」の系譜に位置づけられるのが、1982年のスペイン大会でブラジル代表の”黄金の中盤”を牽引したジーコであり、【10番】の位置付けを確固たるものにしたのが1986年のメキシコ大会で伝説の5人抜きゴールや”神の手”ゴールなどで話題を独占、アルゼンチン代表を優勝に導いたマラドーナだろう。

ワールドカップが固定背番号制となったことによる恩恵を最も受けた一人が、オランダ代表のヨハン・クライフだ。チームの中心でありながら当時まだ控え選手が付ける番号のイメージが強かった12番以降である【14番】を付けたクライフは、”フィールドの監督”として1974年大会で母国代表を準優勝に導いた。悲願の優勝は逃してしまったものの、クライフを中心として当時のオランダ代表が披露した自在制の高い攻撃的なフットボールは現代サッカーにも大きな影響を与え、クライフの【14番】は【10番】に並んでサッカー少年憧れの背番号となった。

日本代表における背番号の歴史

日本が初めてワールドカップに出場したのは、Jリーグでも正式に固定背番号制となった翌年1998年のフランス大会だった。背番号にフォーカスしてみると、開催国として初優勝を果たしたフランス代表で【10番】を背負ったジネディーヌ・ジダンが「10番イコール中心選手」というイメージを強めた大会でもあった。
当時の日本代表で【10番】を背負ったのは名波浩で、左足を操る技巧派ゲームメイカーとして全3試合にスタメン出場して中盤に君臨、まさにチームの中心選手だった。

早くから背番号固定制を導入していたワールドカップだが、空き番号を作らずに1番から順に付けなければいけないルールがある。1998年大会は登録が22人で、最も大きい【22番】を付けたのは平野孝だった。
前年から背番号が固定された所属チームと同じ背番号を日本代表で付けた選手は意外と少なかったが、”アジアの壁”こと井原正巳は横浜マリノス(現在の横浜F・マリノス)と同じ【4番】を付けていた。

フランスワールドカップと言えば、日本代表の中心選手とされていた三浦知良が、本大会直前にメンバーから外れたことが大きな話題となったが、三浦知良はJリーグが背番号変動制だった頃から固定的に【11番】を背負い、”キング・カズ”といえば【11番】だった。その三浦知良選手がメンバー外となったことで、誰が【11番】を付けるのか注目されたが、当時18歳で抜擢された小野伸二が背負った。

4年後の2002年、日本代表が開催国として出場した日韓大会で優勝したブラジル代表では、ロナウド、リバウド、ロナウジーニョの”3R”が攻撃の中心として注目を集めた。ロナウドがエースストライカーを象徴する【9番】、チャンスメイクからフィニッシュまで幅広く攻撃に関わるリバウドが【10番】、稀代の”クラッキ”(ポルトガル語で名手のこと)として期待を集めたロナウジーニョは【11番】を付けていた。

決勝でブラジル代表に敗れたものの、堅実な守備と鋭いカウンターで準優勝を果たしたドイツ代表のオリバー・カーンの【1番】も「守護神」として印象深い大会だろう。

日本代表で【1番】を背負ったのは前回フランス大会で全3試合に出場した川口能活だったが、日韓大会でゴールマウスを守ったのは【12番】の楢﨑正剛だった。

ちなみに、日韓大会から選手登録人数が23人となったが、日本代表で【23番】は日韓大会の曽ヶ端準はじめ、その後5大会連続でGKがこの番号を付けている。登録人数26人となるカタールワールドカップでこの流れが引き継がれるのか崩れるのかは興味深いところだ。

また、この大会で背番号について印象的なのは、12番以降を背負う選手が主力として活躍していたことだろう。「11番までが主力、12番以降は控え」というイメージはこの大会で薄くなった印象がある。

日本代表でも先ほど上げた【12番】の楢﨑正剛はじめ、初戦で負傷した森岡隆三に代わってキャプテンマークを巻いた宮本恒靖は【17番】、同じくディフェンスラインの主力だった中田浩二が【16番】、全4試合に先発した小野伸二が【18番】、中盤で攻守にフル稼働した戸田和幸が【21番】を背負っていた。

その他に話題となったのは【10番】の中山雅史だろう。ジュビロ磐田で背負うエースストライカーとしての【9番】が印象強く、いわゆる「10番タイプ」とはイメージがズレるが、この背景としては【10番】として期待された中村俊輔がメンバー外になったことが大きい。
当時の中山はいわゆる”サプライズ選出”だったため、他の主力選手で12番以降を背負う選手が【10番】になっても不思議ではなかったが、そうならなかったこともまた「11番までが主力、12番以降は控え」というイメージが薄まった印象の一つだろうか。

ジーコ監督に率いられた2006年のドイツ大会では、日韓大会から続けて選ばれた選手も多く、前回大会から同じ背番号を背負う選手が多かった。この大会を最後に現役引退する中田英寿は【7番】、その他にも柳沢敦が【13番】、三都主アレサンドロが【14番】、福西崇史が【15番】、小野伸二が【18番】で前回と同じ背番号だった。
その一方で宮本恒靖と稲本潤一の【5番】と【17番】が入れ替わったのは印象に残っている。

そんな中で【10番】を背負ったのは、前回大会で直前にメンバーから外れていた中村俊輔。卓越したゲームメイカーであり、ゴール前で違いを生み出す左利きのファンタジスタでもある中村はまさしく「10番タイプ」のイメージがぴったりの選手だった。

また、日本代表において興味深い背番号の選手として上げたいのが【22番】を背負った中澤佑二だ。

ブラジル代表戦でキャプテンマークを巻いた中澤は東京ヴェルディ、横浜F・マリノス(加入シーズンは38番)で常に【22番】を付けていた。プロになって最初にもらった【22番】を大切に思い、所属チームや代表でどれだけ中心選手になろうと【22番】にこだわった。もちろん二度目の”岡田ジャパン”でベスト16進出を果たした2010年の南アフリカ大会でも、日本代表の【22番】は中澤だった。

中澤に続いて吉田麻也が背負ったことで「日本代表のディフェンスリーダー」としてのイメージが定着した【22番】だが、実は日本代表における「出世番号」だった。
日韓大会では【11番】を背負い、ベルギー戦で”爪先ゴール”を決めた鈴木隆行が初招集の時に背負っていたり、日韓大会とドイツ大会で【15番】を付けた福西が2000年のコパ・アメリカで背負っていた。

2010年の南アフリカ大会では”無敵艦隊”スペインが圧倒的なパスワークやコンビネーションを生かした攻撃力で話題をさらった大会でもある。その象徴がバルセロナでも名コンビを組んでいた【8番】シャビと【6番】イニエスタだった。当時6番というと守備的ミッドフィルダーの印象が強かったが、後にヴィッセル神戸に加入する名手がイメージを大きく変えることとなった。

日本代表でこの大会から一躍注目を浴びていた本田圭佑は【18番】を背負っていた。そしてボランチのポジションから、本田とともに攻撃の中心を担った遠藤保仁は前回まで中田英寿が背負っていた【7番】を背負った。本田と同じ北京オリンピック組からは長友佑都が台頭しており、サイドバックが本職の選手としては初めて【5番】を付けた。
一方、ドイツ大会から連続で選ばれた駒野友一はジュビロ磐田でも、前所属のサンフレッチェ広島でも【5番】がトレードマークだったが、代表では【3番】だった。
また、ミッドフィルダーが本職ながら複数ポジションをこなせる阿部勇樹は【2番】を背負った。1998年フランス大会でサイドバックの名良橋晃が付けていたことはじめ、サイドバックの選手のイメージが強い【2番】を背負って中盤の底を担った阿部選手の働きなしに、この大会での日本の躍進は語れない。

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